追い詰められるとは、どういうことか

先週末は、ほぼ唯一の予定空白の週末でした。日程を空けておかねば絶対いけないところに行こうと思い、天橋立と但馬のコウノトリ公園に行きました。

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小学校の中学年の頃、ひどいいじめを、長く受けました。

就職して交通事故を起こした時、関係者の一人に、お金をだましとられました(この人はぼくのお金をだましとろうとしているんだなと、わかっていながら、そのまま言いなりにすることにしました、まあ、ちょっとよくわからないでしょうね、読んでる方の大半には)。

人も生き物も、どのように追い詰められていくのかということにとても強い興味があるのです。追い詰められていくというのは、「老い詰められていく」ということとも、ぼくの中ではほぼ同義でもあります。ぼくの家族のことも、下記の本などに書いてありますし。

学校でしなやかに生きるということ

学校でしなやかに生きるということ

 

ぼくが幼少期から青年期までを過ごした旭川市の神楽には外国樹種見本林があり、そこはぼくの遊び場でした。ぼくは動植物への関心が極めて高い子で、林内の動植物地図を自分で描いたりして、日常的に「調査」していました。林内の乾燥化や周辺開発に伴って、どんどん追い詰められていく植物や動物を見ていました。エゾサンショウウオ、コミヤマカタバミミズバショウカワセミ…。

 

コウノトリ公園、衝撃でした。兵庫豊岡のはずれ(そもそも兵庫のはずれ)。沢筋を詰めていった場所。狭い田んぼ、山から出てきたばかりのおそらく冷涼な水。おそらく耕作に最上とは言い難い場所…メインストリートで暮らしているとはいえない人たちが、時に田植えしたばかりの苗を踏みつけるコウノトリを苦々しく思いながらも、完全には追い立てず、そこに住まわせてきたんだなと思いました。泣きそうな気持ちになります。

コウノトリペリカンみたいでした。子育てに一日何キロもの餌を必要としている環境は、相当に豊かでなければならない。飛翔に向いている鳥とは思えませんが、必要なら周辺の広い地域に捕食に行かなければならないでしょうから、営巣のテリトリーの広さとしては、あまりにも不十分な広さの中に、コウノトリは追い詰められていったのだなあ、と。

だんだん年を取り、老い詰められていくであろう自分、そもそもメインストリートを歩くことをよしとしなかった自分の姿と重ねながら、考える、そういう時間になりました。

ここから何かをやり抜いていくには、執念のようなものが必要なのかも、と思います。しかし、ぼくのように何かへの執着の乏しい人に、ここからを生き抜いていく力があるのかなあと、思ったり。 

崩れ (講談社文庫)

崩れ (講談社文庫)

 

 久しぶりに、読み直したい気持ちになっています。