簡潔に話せないこと、力強い言葉で語れないこと、の方に

三日間、マイプロの北海道合宿に参加して、「ファシリテーター」という役割をいただいて仕事してきました。

 

ぼくを最初に「ファシリテーター」と呼んだのは、ちょんせいこさんでしたが、今に至るまでぼくは自分をファシリテーターだと思ったことはありません。また、広義な意味での「ファシリテーション」としての機能を、自分の諸活動が有しているというのはわかるけれど、人の育ちに係る立場にいる人は、ファシリテーターとして立とう、そのベクトルを持ってスキルアップしようと考えてきた人以外は、ファシリテーターと名乗れないだろうと、思っています。その意味では、ぼくはやはりファシリテーターではありません。

 

あ、そういう話がしたいわけではなく・・・。

高校生2名ないし3名に対し、ファシリテーター&サブファシリテーターでプロジェクト支援、さらに数名の遊軍という構成でしたが、二日目になると、支援するもの支援されるものの関係性が変わっていく、そして、斜めの関係や横の関係もどんどん生まれていく・・・さらにそこに専門家が外からやってくるけれど、多くは口をはさめない・・・みたいなことが起こっていきます。

それで改めてトップダウンボトムアップのこととか、当事者性のこととかを、ぼんやりと考えるわけです。

 

ぼくは今、いろんな「現場」に入りずぶずぶとその日常に身を沈めながらいろんなことを考えています。そこはもう本当にそれぞれバラバラで、しかも、例外なく「問題」だらけなのです。ぼく自身は、そうした「問題」を十把一絡げに解決してしまいたいと全く思いません(というか、そういうことはできないと確信をもって感じています)。

それで、そうした「現場」を見ながら、FBやいろんな「先端的」メールマガジンや、そうしたものから流れてくる、「新しい教育」といったもの関連の情報へ目を向けると、違和感が本当にぬぐえませんというか、大きくなる一方です。

〇〇中等学校とか、なんとかグローバルスクールとか、あるいは公立・私立学校で先端的な改革が進んでいるという学校とか、いろいろな名前が出てきて、その「トップリーダー」あるいは施策を進めるエリートの顔は見えるけれど…彼らが語る言葉・像の中に、そこにいるはずの大半の先生・プレイヤーの姿、そしておびただしい授業の姿が、なぜこれほどまでに見えないのだろう。多分彼らの多くが、ぼくが見ているようなものに、本当のところ関心がないからなのだろうと感じています。

 

そうした「トップリーダー」が、目指そうとしている学校の姿としてアジテーションする言葉から立ち上ってくるものは、「多様性」がキーワードだと言いながら(ごく一部の例外はあるけれど)、みんな一様な立ち姿・のっぺりとした表情をしていると感じています。「トップリーダー」のいわば<大文字の発信>の一様さの特徴は、例えばインタビュー記事を読むと、彼らの名前を取り換えて写真を取り換えても、みんな問題なく同じように読めてしまう、とでもいえばいいでしょうか…。

それは昨日まで三日間見てきた子どもたちの姿や、そこに真剣に関わろうとするファシリテーター、サブファシリテーターのそれとは、ずいぶん大きな違いがあるように、ぼくには感じられます。

 

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現場主義の陥穽はよく知っているつもりですが、この国の大半を占めているクソドロドロしたぐちゃぐちゃの現場の話を、もっと真ん中に置いて話したい、そう強く思います。

ぼくはおおむね、新しい教育という<大文字>を掲げて突き進む流れの側は、アセスメントが足りない、あるいはアセスメントの仕方が間違っている、あるいはアセスメントの結果得られたものの分析の視点がずれている、と疑い、心配もしています。おそらくこのことは、クソドロドロの現場にいる人たちとの意識の差をもっともっと広げていくでしょう。

だが、本当に大切なことは、プレイヤーのマインドを変えるのではなく、プレイヤーと一緒にマインドが変わっていくことです。

さて、ぼくにできることはなんだろうか、と考えています。いずれにしても、ぼくの「仕事(働き)」は、「コンサルティング」ではありません。あくまでもプレイヤーと一緒に考えながら走る「伴走者」です。ボクサーと練習を共にしたり、マラソンを一緒に走ったりする人のことを、コンサルティングしているんですね、という人はいないでしょうに…(笑)。

現場の話は、簡潔に話せないことばかりです。力強い言葉でも話せません。しかしぼくは、簡潔に話せないこと、力強く話せないことの方に、本質があると考えています。