教育を科学に、の幻想

【巷で話題騒然の剽窃本の件に寄せて】


随分昔のこと。誰かと林の中を散歩した時だったと思う。ぼくには林の中で鳴き交わす鳥のほぼ全てが個々の野鳥の情報として捉えられる。でも一緒に歩く人にはそれは一かたまりの鳥の声にしか聞こえていない。そればかりか鳥が鳴いていることにさえ気がつかない。

「ああ」と思ったのである。知ってる側わかってる側が論理を振りかざしても、恐らく聞こえてもいない、見えもしない、そういうことが起こっているのだろう。おそらく剽窃を指摘したところで、心の中では承服するまい。書き手のトリミングされた視野にそれは写りこまれていない。

そうした状況を作ることに、ぼく自身が加担してきたのではないか、と自問自答もしている。まともな判断も下せない編集者・出版社を育ててきたのも、薄っぺらな原稿を、賑やかしの写真付きでばらまいて、スター気取りになっていた、ぼくやぼくのような人たちではなかったか、と。

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この20年、教員養成学部は良かれと思って実学に走った。確かに教養教育の延長が教員養成だと思われていた時代から比べるとそれなりに良くなったとぼくも思う。だが、一方で学部が担保してきた研究マインドと最低限の研究的作法さえ受け継がれなくなってしまったこともまた確かなようだ。

その流れの中で、現場の有力実践者は次々とハウツー本を発刊するようになった。民間研修会は「セミナー」になり、今日と明日を救えれば良いなどといって、干からびたノウハウ・ハウツーを垂れ流してしまった・・・ぼくもその一人だ。
どちらが先かはどうでもいいが、とにかく負の連鎖にはまり、出版不況とあいまって、出版社は薄っぺらなプチスター予備軍に群がって、週刊誌ばりの手法で即席でスターにし、使い捨てていく。

suponjinokokoro.hatenadiary.jp

ペラッペラの本さえ読むことができない教員の量産。科学的視点も文化的継承も欠如した書き手と編集者の談合。そしてその深刻性に気づけずに事態を、比率・バランスだの世代対立だの重い軽いだのといった言葉で、得意の仲良くやろう、なんでもありです路線に回収しようとする人々。様々な人たちの、善意で、まさに劣化は止めようもない。