ちゃんと書いておこう・・・トップケースを強めて「下々に」下ろしていくといういかがわしさについて

教育の世界も、「開明的」を自認する人たちが、状況がなかなか変わらないことに業を煮やしている様が、よく見えるようになってきました。まあ、それで、デキル人がとりあえず自分のできるところから始めましょう(それが先端的で斬新でもいいのです)というのは、どんな場合でも、もちろん概ね賛成なんです。

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ですが、それが施策として行われたり、運動として展開されたりするのは、はっきりと間違いを産むと、この際きっちり断言しておきたいと思います。

アベノミクスが成功してるのかしていないのかについて、ぼくは(実感のレベルでの答えはあるけれど)判断できません。ですが、子どもたちを育てていくという分野においては、類種の「先端支援、やがて下々啓蒙」はおかしい。

教室でアベノミクスばりに、勉強できる子だけガンガン伸ばします、その他の子はそのうちおこぼれで潤ってきますからなんてやったらどうなっちゃうでしょう・・・。それでも子どもは伸びるとか伸びないとかいうくだらない議論をしている間に、教室が崩壊してしまうのは明らかでしょう。では、職員室でやったらどうなるか・・・。同じでしょう、職員室が崩壊するでしょう。では官制研修ならどうでしょう? では民間教育研修ならいいのでしょうか? 

先生の学びの場の構造が、教室で子どもたちが学ぶ場とまるで違う構造になっているとして、それが子どもたちを伸ばしていく場づくりにつながるかというと、まあ、ダメでしょうね・・・。

トップケースを強めて「下々に」下ろしていくのは、わかってもらえない人やなかなか理解が進まない人に懇切丁寧に関わることよりも遥かに簡単です。

都心に近いとこに住み、人口流出激しい山間部や沿岸部で苦闘する教室の「日々」を思い描かずに、一筆書きのように教育施策を提案するのは容易い。そりゃあ、関係法を整備したり、施策を策定したりするのは大変だと思いますよ。でも、一番難しいことは、机の上で立論することではなく、有象無象の人間を相手にすることであり、そもそも教育は有象無象の人間を相手にすることそのもの何ですよねぇ。

トップだけを相手にするなら、確かにトップの人たちは意欲も願いもたくさんあるし、技もあるからぐんぐん伸びる。最初からできる人たちですから、レスポンスもある。やっている側にも圧倒的な達成感や充実感が生まれるでしょう。でも、ダメですね、それでは変わらないでしょうね。断言するけど、ダメでしょう。

人を育てるってことはまどろっこしくてしんどいのですよ。

アベノミクスみたいにはそもそもいかんのですよ。

アベノミクスは企業の大規模な内部留保を産んだようですね。でも下々にそれが下りているのかどうかは、ほとんど恣意的な指標しか示されず、それすら根拠レスであることがはっきりしてきたわけです。

翻って、教育活動なんてそもそも成果の見えにくいものな訳ですから、最後はトップケースを強めてきた人たちが、「でも少しずつよくなってきている」とか言い換えてしまったりしやすい(そういうの最近教育の世界だけじゃなくいっぱい見るし・・・)、結局責任を取らない構造に堕しやすいですしねぇ・・・。

人を育てることのまどろっこしさ、しんどさに、耐える先生方の側でありたいと、心底思います。