自分を理解していくしんどい道

昨日、今日と、以前からの予定通り、ひたすら父と向き合っている。一部オンライン支援の日程を変更させていただいたり、迷惑もかけています。

今朝は、20本近い電話をかけ続け、一体いくつの銀行口座で何件の引き落としや入金になっているのかわからない状況を一つずつ整理していきました。最後は口座を一本にまとめたいわけです。もう父は銀行に自力で出歩いたりもほぼできないでしょうから、なんとか環境を整備しなくてはいけません。

まとめようと考えている銀行の印鑑・・・。父は「これだ」と主張するわけですが、最初からぼくは疑っており、近くにあるその銀行の支店で、まどろっこしいやりとりを繰り返してやっと確認してもらうと、やはり違っていたりします。もっとも、全て想定内ではあります。

父は銀行までは到底連れていけませんから、結局銀行口座を開設している支店でやりとりするのが一番確実だなと思い、そこへ先に電話をかけて事情を話し、直接行ったりしました。その銀行支店は、とても小ぎれいになっていたけれど、かつて父が事件を起こした時に家族が身を寄せた長屋のあった辺りにあります。お世話になったピアノ教室の先生の家が経営していました、そのピアノ教室は今もあるんだな・・・(当時は、ぼくの最初の妻も、そこに同居することになり、なんとも申し訳ないことをしました。今思えばぼくも精一杯だったのです、本当はぼく自身も逃げ出したかったのでしょう、当時は自分の感情のありかにも気が付いていなかったと思います・・・)。死に場を求めて突然玄関から飛び出していった愛猫の背中を最後に見失ったパチンコ屋の駐車場などを見ながら、いろんな感情が吹き出してきそうな、そんな自分と向き合ったりします。

父は、印鑑一つ見つけられない状況、問われたことにほとんどまともに答えられない惨状に、自身もショックを受けるのですが、仕方がない。老いと死に向けて、まだしばらくの緩やかな時間を与えられていることにぼくらは感謝しながら、父が自分を理解していくしんどい道を伴走するしかないのです。

思えば、父は豊かな素養を持った文学者であり、しかし、自身ではまともに生活もできない自力走行の難しい典型的な文学青年教師でした。ぼくはその父の血を強く引き継ぎ、小さな頃から生活力が低いと周囲に心配されてきた子どもでした。

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自分でも気づいていなかったけれど、今、父と過ごす時間が長くなって、そうだったのかと思うことがあります。胃ガン、事件、新たな活動・・・と進んでいった父の姿を見ながら、ぼくは自分で歩けること、ぼく一人で暮らせることを、強烈に意識しながら、30代以降の道のりを歩いてきたんだなということです。父の特性を強く受け継ぎながら、父のようには暮らさない、自分のことは自分で決める、自分のことを理解する力を身のうちに備える、孤独に生きられる、そういうことを希求してきたんだなあ、と。

ここから父の最期まで、ぼくなりに丁寧に伴走しながら、ぼく自身は、自分一人で、一人きりで最期まで歩ける人になりたい、誰にも寄り掛からない、そういう自分でありたいと改めて思ってもいるわけです。

さあ、自分のことも、やらなければなりません。原稿の見直しも、執筆も、最後は全部、ぼくがぼくだけでやらなければならない仕事です。