北海道は寒いくらいだ

ぼくは、最近、「改革派」のみなさんに、嫌なことを言うポジションを貫こうと思っている節がある。

ぼく自身の発言に関しての矜持を示しておくと・・・。

ぼくはいつも、絶賛をやめたいと思っている。

ぼくはいつも、自分の気づきを世の中でこれまで使われている言葉に集約しないようにしようと思っている。

例えば、美術館やコンサート、芝居の評を書くのをやめたのも、いつの間にか、ぼく自身の言葉が、既存の言葉・説明に引き寄せられた言葉に回収されてしまっているのではないか、と思うからだ。

 

さて、それで・・・。

美しいシステムを作文することは比較的容易なはずだ。

先端的事例をいくつか集めて、作文すればいい。

あるいは絶対善の理想を掲げてそれが精緻に進むシステムを提示すればいい。

こういう流れに学校教育(界)は弱い。経験がないからだ。

古くは「高度経済成長モデル」近年では「地方創生モデル」・・・要するにいくつかしかない良き夢をばらまいて、成功者と失敗者を生み出していくモデル・・・すでに他領域でもたくさん弊害を生んできた改革モデルに簡単に総論賛成とか言ってしまう。

だがたいていの誤りは一人一人の問題を軽んじたり優先順位を後回しにした場所で起こると思っている。新しい歴史教科書をつくる会の問題を比較的近いところで見ていた時に痛切に感じたことだ。従軍慰安婦を強制徴用したかどうか、そういうシステムがあったかどうかなどということよりも、そこで悲しい思いをした人間を想像できるか、そういう想像力を持てるか、それが学校教育が寄り添わねばならないど真ん中の感情だろうと思っていた。システムの議論は大事だがそれが人に優先されることはあってはならない。学校と福祉だけが人とドロドロに向き合う場所だと思う。それで何が悪い、とさえ思う。学校に限って言えば、ここでいう「人」には、生徒だけでなく教員も含まれるのは当たり前だ。

一方で、学校教育側にも甚大な問題があると思う。その一つは、先頭が気持ちよく走っていける場を概ね作ってこなかったことだ。先頭を走る子は教室で待たされ続けてきたのである。
文部科学省にせよ経済産業省にせよキャリアはエリートであり、苦学した一部の人を除いて、おそらくは学校で学力そのものはもちろん学ぶ楽しさすら手渡してもらってこなかったのである。学校から学ぶ楽しさすら教えてもらえなかった人たちのルサンチマンの深さは、ぼくにもそれなりに想像できる。

いずれにせよ、僕にとっての問題はどこまで具体化・具現化できるか、といった美しい言葉に回収されない内実だ。ぼくらがみてきた「あの子」や「あの先生」がそこにいられる場所はあるのか、ということだ。

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で、ここまで書くと、この問題を、人とシステムが対立するって話とか、経験主義と系統主義の問題とか、自分の理解する言葉に納めて理解しようとする人たちが多くて、正直つらい。もちろん自分自身の発信媒体でどのように書いてもらってもいい。しかし、ぼくへのコメントとかで、浅薄に既存の言葉を使ってまとめないでほしいと思う。そういうことなら、ぼく自身がそうやって書くし、その程度のことなら、ぼくはそもそも書かない 笑

上の文章に関しても暇な人は何度か読み直してほしいが、少なくとも、人とシステムとが対立するって話とか、経験主義と系統主義の問題とか、ぼくは一言も言っていない。