メモ やはりぼくも、フルタイムで働こう 今の仕事はあと一年だな、と思う。

メモ

 

土曜日に武蔵大学の武田信子さんの講座で甲斐利恵子さんの模擬授業と講演をお聞きした。数年来、何度か教室をお伺いしてきたが、私は、甲斐さんの関わる学会などには参加していないこともあり、甲斐さんのお話をこういう形でまとまってお聞きするのは初めてだった。

 

『子どもの情景』の冒頭で紹介されているエピソードについて詳細に肉付けされたお話から始まった1時間にまさに引き込まれた。

子どもの情景

子どもの情景

 

もちろんその中学校での苦闘の話は、私も厳しい学校からスタートしたので共感しながらお聞きしていたのだが、それと共に、もう一つ小学校の臨時教師の時の算数の授業の話がとても心に残った。

算数は教えやすかった、と甲斐さんは言う。答えが決まっていて、筋道が理路整然としていて、教えやすかった。子どもたちの出来たという顔を見るのは至福だった、と。もちろん算数・数学の奥深さを、今、甲斐さんが知らぬわけがないわけで、それは若かりし日の認識の吐露、なのだ。が、この話は、私が今方々で見聞きし、感じていることと、あまりにもシンクロするのだ。

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先日ちょんせいこさんが若い先生の教室を見た時のことをお伺いした。せいこさんは「先生が国語で表情が曇り算数で生き生きする」とおっしゃっておられた。私も、方々の学校で若い先生にインタビューすると、決まって若い先生は、算数は困っていない、国語で困っているのだと言う。

その困っているの中身を、甲斐さんのお話を聞いて、ああ、そうか、と実感を持って掴めたと思った。

月並みな表現になってしまうが、それは、マニュアル的にやれるかどうかと言うことなのだな。算数数学でずうっとつまずいた私は、ここが今一つよくわかっていなかった。学習者がつまずいているかどうかではないんだ・・・先生が教えやすいかどうかなんだ・・・。

国語も、小学校、さらには中学校の赤本のある教科書会社のものは、赤本を見て授業をすることは常態化している。しかし、算数やその他の教科と国語は、違う。赤本を読んでも、国語は「わからない」のである。そのわからなさにちゃんと魅せられて授業を進められるか・・・。ここだ・・・。

 

話題のラーニングスキルテスト(間違った。リーディングスキルテスト)は、答えがある。そして答えがあるから、たくさんの人がいろんな理由をつけて飛びついていく。本当は、それが出来ても文章が読めることにも言葉の力がつくことにもならないことを、たいていの人は知っているだろうに、それにすがる。シングルイシューで物事が解決するわけがないことを、複雑な人生の中で実感痛感しているのに、むしろ実感痛感しているからなのか、簡単に解決できる方法を探そうとする。本当は、そこで混沌と向き合う決意を固めるべきなのだと思うのだが・・・正確に書けば、リーディングスキルでも、コグトレでも、それは問題の一部を鮮やかに示すことはできても、あくまでもそれは「一部」に過ぎないのだ。

 

分からなさと向き合う力を育てるのが、国語だったのだ、と今改めてしみじみ思う。

その分からなさの方角へどこまでも歩もうと決めた甲斐さんはもちろん素晴らしい。だが、考えてみれば、かつては少なからぬ先生が、教育とは分からないものへ足を踏み出していく営みだとわかっていて、それぞれ、そこと深く向き合っていたのではなかったか、と思う。

しかし、いまやもうそれは地層に埋もれる化石のようになり、私たちは地ならしされた道をまっすぐ歩くのが教育だと9年かけて子どもたちと先生とで共有している、そんな学校なのだ・・・。

 

そう言えば、道徳の授業で困っていますという話を、都市部では急速に聞かなくなった。ここでも見事なマニュアル化があっという間に進行しているんだ。

 

おやすみなさい。