早起きは三文の得、ではなかったか

早起きは三文の得、というわけですが、今朝は、早起きしたばかりに、見なければよかったと思う動画を見てしまった。信頼する方のタイムラインで紹介されたものだったので、つい見てしまったのだが、漫然と見てしまった自分に、朝からがっかりしてしまった。

太平洋戦争下、ぼくらの国は、自国の問題だけを取り上げても、事実として夥しい若者を戦地に散らせてしまい、その家族・肉親・恋人の人生を大きく狂わせた。まずその大状況を十分内省せず、考察せず、説明せずに、そこで個別に起こったドラマを美談にしてはいけないと思っている。
もちろん、人はそれぞれその現場で懸命に行き、力を尽くす。その行為は尊い。だが、大きな状況から目をそらせ、本質を見つめる目を曇らせるのは、個別のエピソードを武器として使い始める場所から起こるとも思っている。

かつて死刑廃止をテーマにしたディベートについての議論に参加したことがある。教室ディベートを広く知らしめ、一方で政治的なスタンスを大きく変えることになって世間を騒がせた高明な教育学者の方が、死刑肯定側が勝つのは難しいディベートだと喝破されていたのを思い出す。彼は勝つ可能性を追究するなら一つ一つの深刻な事件事案の詳細を微に入り細に入り取り上げていくしかない、と。つまりエピソード語りの暴力性についてを、その反対側の方向から説明してみたのである(とぼくは受け止めたということか)。

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教室のエピソードを丁寧に語るところから始めたいと常々話すぼくにとっても、この話は、一つ間違えると自己矛盾と捉えられかねない難しい問題だなと思う。

少なくとも政治家は、そもそもを語らずに美談を積み重ねてはならないと思う。時間がかかっても、丁寧に文脈を語らなければならない。教室において教師は時として政治家である。ならば、教師もまたそうでなければなるまい。

さあ、気を取り直して、1日を過ごそうか・・・。