難しいな

45分の授業。問題のわからない児童がいる。先生はその児童に張り付いて問題の支援をする。その熱意はよくわかるが、一方でまるっきりいないかのように透明にされてしまった(結果としていないものにされてしまった)その他大勢の子どもたちが教室にいる。先生は熱心さのあまり、透明にされている子たちのまなざしにも思いにも気がつかない。そうこうしているうちに気づけばたった一人の児童だけの指導に数分もの時間が費やされている。

授業中に子ども同士のトラブルが起こる。先生はその子どもたちの指導に入る。一人は教室を飛び出してしまう。先生は子どもたちにちょっと待つようにいい、その児童を追いかけていく。授業をして欲しいと願っている多くの子どもたち、私の方も向いて欲しいと思っているたくさんの子どもたちの感情は透明にされてしまう。

そもそも該当の子どもが、過剰に関わられて辛くなったり、決断を迫られて感情を抑えられなくなったりしていることに、善意の教師は思いを向けられない。クールダウンも内省も、最後は個々の中で起こるのだが、そのための余白、間を用意してあげられない。

 

こうしたことは、特に難しくなりかけた教室の先生の所作を見ていると頻繁に見るケースなのだ。

だが、実は、この問題は根深いとも思う。なぜならそうした状況に陥る先生の一定程度の方々は、子どもを見る力が弱く、方法で解決しようとする傾向が強いと感じるからだ。

だから、指摘を受けると、自分を反省し、今度は何でもかんでも距離を取ろうとする。子どもに過剰に関わっている状況を指摘すると、今度は、見取り・観察などと称して何もかも介入せずに見守ろうとしたりする。

こっちの方法がダメなので、今度は別な方法を取るが、いつも方法選択は一つであり、組み合わせてハイブリッドしたり、場面や相手によって対応を変えたりする発想がない。要するに、いつもこれまでの方法を捨てて別な一つの方法で上書きしようとする。いわば、シングルイシューで解決しようとする。

「間」がないのである。グラデーションがない。状況判断もない。

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誤解を恐れずに書けば、教師の仕事というのは、「間」に立つ仕事、状況によって判断を変える仕事なのである。ここがわからないうちは、なかなか状況は改善しない。

この「状況によって判断を変える」というのが、またいろんな意味で難しい。状況によって判断を変えるのに、子どもがニコニコとついていく先生がいる。一方でほんの小さな対応の違いで、子どもにそっぽを向かれてしまう先生がいる。さて、これは、何がどうなって、そんな違いが出てしまうのだろうねぇ。

関東は小雪