雑感(発信の仕方を見ながら、考えること)

発信の仕方にはとても気をつけている。ぼくはTwitterでもFBでも議論がうまくいったのを見た事がない(多分構造的にうまくいかないメディア)ので、誰かの記事へのコメントツリーの中などで議論を吹っかけることはほぼしない。

 

どうしても何か書き残したいなという時は、概ね自分で新しい(呟き)スレッドを立てることにしている。

 

少し本音を書くと、焦っているんだなと感じる書き込みはある。そうした場合は、威勢と虚勢、あるいは断定が見える。そういうのを見ると多分提供できるコンテンツも薄いのだろうなと思う。それで発信の仕方を見ると、大体その辺りは透けて見えてしまう(ま、ぼくも薄っぺらなので、だから発信の仕方には気を付ける)。

一方で、例えばTwitterで惜しげもなく自分のコンテンツをフリー公開する(例えば、自作通知表文言案など)方がいる。その発信の仕方に賛否もあるのだろうが、通知表の文言案なんてものは、良いものをシェアしてしまえばいい領域だ。しかも発信されているものの質が十分に高い。すごいなあと思う。自分で考えるのが大切という議論もあるだろうが、良いものを見てそこから考えればいいのだと思う。こうした形でフリー発信をする方々は、概ね発信の姿勢にも謙虚さを感じる。力のある人はコンテンツが豊かだ。本物の自信もある。だから、惜しみなく公開できるのだと思う。

 

わずかなコンテンツで食べ繋がなければならないと、コンテンツを小出しにし、一部をシークレットにして、焦らして出していくことになるのだろう。でも、これは、いいところでCMに入るテレビバラエティの手法と同じだ(テレビ離れの一因だという人もいる)。多分、自分の発信の仕方が、知らず知らずそういう既存の(たいていはご本人がオワコンだとも思っているはずの)手法のステレオタイプになっていることに気づいていないのだろうなと思う。

既存の発信メディア・ツールに乗っかって発信しようとすると、自ずとそのツールの特性そのものに縛られざるを得ない。zoomもyoutubeも、新興メディア・ツールである。そのツール自体の盛衰は避けられない(ぼくらはnifty会議室やmixiニコニコ動画の盛衰を見てきたわけで・・・)。そうしたものを全て引き受けて、そこに自分の可能性を依りかけてしまうリスクを負えるのを、勇気と呼ぶか、無謀と呼ぶか・・・。

 

でもぼくも「フリーランス」と枠付けされる立場として、焦りには共感できる。コロナの経済縮小は、直前にフリーランス選択した人には想定外だろう。つらいよね。

ただバブルも神戸震災もオウムもリーマンも東日本震災もくぐったぼくの世代には(世代論は嫌いだけど)やはり想像力を働かせるための経験はある。

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まあ、いずれにしても、発信の仕方のしんどい人についても、変わりながら成長することを信じられるかどうかも、教育の力を信じることに重なるのでは、と思う。

ぼくは、人が変われるということについては、ちゃんと信じたい。教育者の端っぽにいるわけだから。ぼく自身もそうして少しはマシに変わってきたわけだから。ただし教育は相手を変えるのではなく、相手の内側にある力をファシリテーションして変わっていけるように促す営みだと思う。促し方には様々なアプローチ(「アプローチしない」も含め)がある。