映画に逢いに行く〜ラストレター

「コロナ疎開」というのだそうだが、それならぼくは真逆で、どうしても東京に一度戻らなければならないのだった。

4月の東京での仕事が全部なくなることがはっきりした。でもどうしても東京へは一度戻らざるを得ない。これで死ぬかも知れないというぼんやりした恐怖さえ感じる。それで考えたことは、この危急の状況を自分自身へと回収する、自分の物語が必要なんだ、ということだった。そんな風に思ったのは、多分いつか”聲の形”を観に行った時以来ではないかと思う。

本来なら関東関西北海道の主要館でたくさん上映されるはずだった岩井俊二の”ラストレター”は、このタイミングの封切りで本当に残念な流れになってしまった。そうだ、仙台へ行こうと思い立つ。オンラインの方々にもお話しして日程を変更していただいた。仙台のチネ・ラヴィータで上映していることは知っていたから・・・これを見て、夜行で東京へ戻ると決める。飛行機を仙台便に付け替え、多分乗客が少なくて早く着くはずだと読み(定時で着けば上映の最初には間に合わない)、飛行機に乗り、本当にギリギリ空港発の電車に飛び乗れて、無事に仙台駅に着く。会場は小さな映画館。昔ぼくが愛した旭川や北見の小さな映画館を思い出すつくり。ぼくを含めて5名。瑞々しい演技と映像が満ちる、素晴らしい作品だった。

いつからか、ぼくは物語を受け止めるのが難しい人間になった。物語を読めない。映画も見れない。全て自分の物語の一部として回収できないと、物語と向き合えない。物語に出会うことはさながら玉砕戦である。まさに、このタイミングしかなかったのだと思う。ここも明日で上映終了だ。

そういえば、”花とアリス”も、ぼくはわざわざ見に行った映画だった。札幌のシアターキノに、多分広尾から見に行ったのである。天才子役としてその名をほしいままにしていた鈴木杏と、まだほぼ無名だった蒼井優の二人の名子役、子役から大人へと変わる本当に一瞬の輝きを収めた素晴らしい作品だった。そして、鈴木を上回る蒼井優の才能に驚嘆する作品でもあった。

今作は、広瀬すずと、そして森七菜。森の才能が広瀬を凌駕する、とまでは思わなかったが、でも森がこれからの軸になる突出した才能であることは、ちゃんとわかった。輝きのある女の子であった。”花とアリス”を見た時、岩井は本当は女の子なんて大嫌いなのだなとしみじみと思った。リリーシュシュやスワローテイルで伊藤歩を映す視線にもそれを感じていた。でも・・・今作までの間に岩井とそれとの間には、年相応の温かなまなざしが滑り込むようになったのだなとも思った。

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ぼくは、旭川映画村時代に、シネマラソンの企画に、洋画好きのメンバーを説得して、岩井の”ラブレター”を入れた。今はなき北見東急の映画館で見たそれはぼくの生涯で何本かしかない深い記憶に残る作品だった。どうしても、自分の暮らす旭川で仲間たちと一緒に観たかったのだと思う。

今作は、その”ラブレター”へのある意味ではアンサーに当たる作品でもある。だからこそ、この危急の中、「ぼく自身にとって」ぼくの今を乗り切るための物語として、どうしても見ておく必要があると思ったのだった。。

作品は、”ラブレター”や”花とアリス”に比べると、ずうっとウェットであった。

叙情という言葉で語られることの多い岩井作品だが、そういう風に言うならば、少し叙情が過ぎるとも思えた。登場人物たちが、随分と泣くようになった。だが、それは震災を経た仙台、岩井自身の出身地でもある仙台という場所を舞台にしたから、でもあるのだろう。監督自身が泣く場所を探していたのかも、代わりに泣いてもらうって、ロマンチシズムであり、ハードボイルドだなと、思った。

松たか子はよかった。中山美穂豊川悦司福山雅治の演技は、圧巻であった。神木隆之介くんはいつも通りの神木くんだった。

岩井らしい細かな伏線も随所にあり、おもしろかった。

手紙の仕掛けは、途中からある意味ではどうでもよくなったのだが、でもうまく機能していた。

それにしても・・・

いつから、ぼくにとって、映画は逢いに行くものになったのだろう。多くのエネルギーやら時間やら感情やらを打ち込んで意を決して見に行くもの、それが映画だ。

仙台東京の夜行バスも、もうすでにどんどん減便になり、最後のこの一本も後数日でなくなるようだ。

この週末で、ぼくは今ぼくがいる東京という場所で、懸案の原稿の見直しを完了しようと思う。

 

支離滅裂だが、このまま直さずに書き残しておこうと思う。