お盆に考えていたこと・・・メモ

書籍の影響力の衰退は甚だしい。講師の先生方が今の自分の精一杯を書いたであろう本が話題になり、アンチの辛辣なレビューもある。だが、批判している人たちもまた状況を作り上げている当事者であるという、いわば、当事者性が乏しいからこそ批判できるのだろうとも思う。

実は、そもそも書籍を作るなどということは、大したことではなくなったのだ。学校教育界隈にだけ焦点化しても、1984年の教育技術の法則化運動以降の40年弱は、書籍を作ることのハードルが下がり続ける時間だった。それがダメだと言っているのではない。ここで詳述はしないが、ぼくはむしろそれは必然的な流れだったのだとも思っている。出版のチャンスなど人生で一度も回ってくるはずのない教師に、実践を積み上げ、記録をシェアしていくことで出版のチャンスが巡ってくる…すごいことである。事実、だからみんな一所懸命ない知恵を絞って書いてきた。本来なら書籍など出せる能力もないぼくも、そうした頑張れば書籍を作れるという社会の中で、本を出せるかもしれない…そういう状況が40年近く続けば、出版物の質が下がっていくのは当然と言えば当然だ。また読み手の読む力が圧倒的に下がっていくのは、読み手に要求する水準が少しずつ下がりつづければ、これも当たり前のことだ。

ともかく、みんなが書籍を作るということを貶めることに加担してきた。そしてそのことに書き手も読み手も無自覚になっていく時間の中で、今の書籍をめぐる状況がある。書籍の影響力の衰退は、学校教育界隈に限って言っても、そこに関わるほとんど全ての人たちによって作り出されてきた状況なのである。

いずれにしても、書籍を出せばすごい、というような、時折鎌首をもたげてくるそれは、もう本当は実態・事実とかけ離れている。書籍など誰でも出せる薄っぺらな状況の中で、内容がペラペラになるのは当たり前だ。だからそのことをもって批判するのは、かつてと圧倒的に状況が変わったことに意識が向いていない、からだろう。そして意識が向かないのは、自分もその状況を生み出す当事者の一人だという問題意識がないからだろう。その上で、それでも書籍出版にこだわるなら、自ずと二つの選択になる。

①ペラペラの本を名刺がわりにさっさと作ってしまう。

②状況を引き戻すような本気の文章を書き続け、日の目を見るまでの長い時間に耐える。

あえて二項対立的に問題を劇的に差し出せば、そんな風になるだろうか。

 

個別最適化を云々する動きに出会う時、絶対手放さない視点がある。「その個別最適化は、個への凝視・高い解像度を前提にしているか」である。実践者にとっては、「できない」「繋がれない」「待たせっぱなしにしている」「満足させられない」…そういうたった一人のこどもを凝視した末の個別最適化なのだ。さて、ギガはどうだ?

 

学校教育というか教育産業自体が、長い間、中小企業の生計の場だった。しかし、一斉学力テスト実施あたりから今のGIGAの経産主導の流れの中で、誰の目にもわかる程度に、「今は」金の成る木になったわけだ。ぼくは経済原理が学校に進出してくることに慎重だが反対ではない。しかし、この流れだと、ぼくら実践者は10年くらいのスパンで草木も生えぬ荒凉とした教育土壌を歩かされることになるものと覚悟する。ぼくは北海道人だ。開発局も鉄道も炭鉱も、国家主導で甘い汁を吸い上げる場所が最後はぺんぺん草しか生えぬ「貧困の場所」になることを経験的によく知っている。

 

モーリシャス。この案件、安倍さんのコメントは未だにないのかな。我が首相。文化的事案、自然環境事案あたりには、一貫して自分の言葉で語れない印象。自国だけ「美しい国」ってわけにはいかんと思うのだが。総理は孤独なんだろうなと思う。学級担任でさえ、これほど孤独な仕事であり、その孤独に耐えられない人が山ほどいるのだもの。総理の孤独は、ぼくになど推し量りようもない。ただ、総理っていうのは、その孤独と対峙することで、巨大な権限も手に入れられる業務なのだ。だから、孤独に耐える心技体が整わなければ、やはり速やかに辞めるしかないのでは、とも思う。厳しい言い方になるが、そういう厳しい言い方をも身に受けながら業務を行っていく、そういう、日本でいくつかしかない立場なのだもの。

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祖母のお墓参りに行くことができた。会うことのなかった祖母。ぼくを守り続けてくれる人。ぼくは母方の複雑な家系の全貌を捉え切れていない。ただ、とにかくここに来ると、墓守りがおり、おそらく孤独であった祖母に心を寄せ続けてくれる人がいることを知り安堵する。今回は、初めて、娘を連れて行くことができた。