死刑囚表現展2020に行く メモ 2020.10.25

忘れないように、やはりメモを残します。

松本治一郎記念会館。

解放同盟の本部がある。入船のビル。近くには救世軍の教会もありました。

今回は、直前に神奈川新聞社カナロコ)が、記事をネット配信したこともあり、狭い会場に、すごい人でした。ネット配信の中身に、植松聖死刑囚の「作品」がはっきりと掲載されていて、これが広く関心を集めたことは事実でしょう。ぼく自身もそれを契機に、これをやはり見ておかなければという気持ちになったわけです。もっとも、ぼく自身は、植松死刑囚の作品がカナロコの記事に載せられていることを持って見に行こうと思ったわけではありません。死刑囚の作品自体は、特に植松死刑囚のような社会へのメッセージそのものを目的として犯行に及んでいる場合に、それを衆目が確認できる形でネットにあげるべきなのかは、ぼくには疑問でした。

ぼくは、若い頃死刑反対でした。この展覧会自体も、はっきりと死刑反対を標榜する団体によって開催されているわけですが、会場の作品にはそれぞれの方々の受刑の理由が書かれているわけではありません。死刑を認めるかどうか、ということを、展覧会にやってくるぼくらが作品を見て考えるには、この展示ではちょっと難しいなと感じました。実際、少なからぬ観覧者が、スマホで受刑者の名前をぐぐり、どのような受刑理由であるかを確認しながら作品を見ていることには、二重三重に複雑な思いを抱かざるを得ませんでした。中には、中年の三人組のように、スマホでぐぐり、「こいつは女に声をかけて6人殺したらしいぞ」「余程言葉巧みなんだろな」と話しながら、声を立てて笑ったりする者も少数ながらいたりする状況をみると、ぼく自身の困惑は、いよいよ深くなりました。

風間博子死刑囚のように再審請求を続けている方もいます。また、山田浩二死刑囚のように事件に関して不可解な経過をたどり、少なくとも事件に関して多くの方が釈然としない思いを抱えたままになっている人もいます。冤罪の可能性を否定できないと素人ながらに感じる方の作品も、確信犯的に大量殺戮した方の作品もある・・・そういう分類不能な暴力性に向き合わされ、しかも劇場的な視線がそこかしこに刺さっているというこの状況下で見るというのは(ぼくだって、劇場化の一翼をになっているわけで、その責任を回避できるとは思っていませんが)、困惑や当惑の渦の中に巻き込まれるようで、途中で頭を抱えて目をつぶってしまいたくなる、そういう場所ではありました。また、世間の耳目を集めた事件の当事者ほど、過剰な表現欲求に突き動かされたものになっていると感じました。まさに見られる快感みたいなものを、こうして見にきたぼくが担保してしまっているのではないか、と罪悪感に攻め込まれるような感じでした。作品の多くは、残念ながら、「作品」と呼んでいいレベルとも言い難い。まあ、死刑囚に内省を求めるのは、ぼくらのエゴなのかも知れませんが、あまりにも稚拙な自己弁護や感情吐露に向き合わされると、被害者やご家族の感情を思い、怒りも湧いたりする。ぼくは、長い時間をかけて、死刑やむなしの立場に自分が傾いているのかも、ということにも気づかされました。

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かつて、授業づくりネットワークの研究会で、死刑廃止ディベートをした時に、藤岡信勝さんが「死刑容認派が論理的に勝つのはとても難しい。犯行内容を微に入り細に入り語って、陪審員の感情に訴えるしかない」とおっしゃっていたことを思い出す。今の藤岡さんがどう考えるかは、ぼくにはわからないけれど、今日思ったのは、そうだ、しかし、その感情そのものが、この問題のど真ん中におかれるべきことではないか、ということでもありました。

見終わって、誰かと話したいなあと思いました。

ぼくは、幸せなことに、ぼくと話したいというたくさんの人に恵まれています。でも、ぼく自身がずうっと長いこと、話す誰かを持ち合わせていない。ぼくには、対話する相手がいないのだ、ということを、久々に残酷に突きつけられながら、八丁堀の駅までトボトボ歩きました。まあ、よい、ずうっと、そうして歩いてきたのだもの。

ぐちゃぐちゃですが、メモのまま書き残しておきます。