「ゆづり葉」は何を譲って来たのか

晦日も元旦も、大した何かを発信する気になれなかった。

こうしたタイミングでみんなが一斉に誰も読みゃあしない空間に、自己満足の振り返りと未来への希望を投げ入れる風潮に、弩級の違和感さえ抱えるようになっていた。でもなあ、三春さんのnoteの記事を読みながら、ちょっと涙が出そうになった。

節目節目、折り目折り目で、発信すること。そのことで誰かに届く可能性を信じること。発信に意欲を失いつつある自分を叱咤激励してくれるものだ。

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「ゆづり葉」を、どういう文脈で読むか。

この圧倒的な名詩の前で、その美しさに思考停止していた自分、国語教師を名乗る自分を、恥ずかしいと思えたのも、とてもありがたかった。

ぼくもまとまったものをいくつか形にする努力を積んでみようと思う。

後を歩いてくる人たちに、ぼくが、質が高いと思えるものを、価値があると信じられるものを、譲っていこう。