「伴走」についてコメントするのは、今の僕にはとても難しい。
でも、あるブログ記事を読んで、色々考えたので、メモを残しておこうと思い立った。
一つ自分が実感として言えるのは、そして、だからこそ昨今の「伴走」プチブームに違和感を覚えるのは、「伴走」は短い、定められたような小さな規模の時間ではできないってことだ。伴走の単位は、多分私と一緒に走る経験のある人以外には伝わりにくいと思うけれど、時間ではなく、まとまった距離の問題なのでは、と思うのだ。小さなサイズで起きる気づきは概ね小さい。それは、リフレクションなどと呼べるものではなく、気づきとか、改善とか、そんな感じのものではないか。
なので僕は自分の1on1対話を伴走と呼んでいない。一時そう呼んだ時期もあったが、もうやめている。もちろん3年にもわたってずうっと1on1対話を続けている方もいらして、その方との関係は「伴走」という言葉が似つかわしいのだろう。が、色々文脈を理解されないのが辛いので、僕が自分の仕事の中で伴走と呼ぶのは、学校・教室にどっぷりと入らせてもらえた時だけにしている。
そもそも一般的にも「伴走」というのは、当初は最低でもボランタリズムに貫かれていたものだと思っている。無論、それは僕にとって今は生業であるから、僕にとってももう概ね無償とはいかない。しかし、おおよそ今でもみなさんがびっくりするほどの少額で入っている。
またかつての東京の中学校理科の先生の教室は無償で入っていたし、大阪の池田市や福島南部の学校もそうだった。今でも、茨城の学校や多摩市の小学校には事実上無償で入っている。
そもそも1on1対話だって、50分で2500円しかいただいていない。これは恐ろしく少額だと思うが、僕が楽しみつつ学んでいる時間でもあるので、これ以上はいただけない。また、2500円に見合う対話ができているかと、いつも自分を疑っている。1時間30000円をとる教員出身の方や、ついでに石を20万円で売ってしまう人とか、すごいなあと思う(それで双方が納得なのだから、まあとやかくは言えないが、僕にはそういうのは難しい)。
僕が言いたいのは、無償で伴走するべきだと言うことではない。
ただ、そもそもそれを生業とすることを目的としているのではないスタートと、そもそもそこで経済をやろうというところからスタートしている場合とは、違うだろうな、ということだ。
伴走というのは、とても疲れる。むしろ走っている本人以上に汗をかくものだと思っている。また、そうでないと伴走なんて出来ないとも思っている。え、そんなに疲れるのになぜやるの、ということで言えば、最初の話に戻るが、その根幹にはボランタリズムがあるからだ。
ボランタリズムと書いているが、本当はそんなのは当たり前で、さらにその前提に、ホスピタリティでさえない、コンヴィヴィアルがあるということだ。楽しさに貫かれているからできる。いや、楽しさに貫かれていないとできない。ぼくの入る現場の先生は概ねここは相互理解できていると思う。
したがって、そもそも、1時間のオンライン対話とか文書でのやりとりとか、そういう感じでやるものは、それを否定しないし、僕もしているし、大事だと思うが、僕が現場に実際に入って行っている「伴走」とは、もう全然違うものだと思う。
それは恐ろしく疲れるけれど、恐ろしく楽しいものなのだ。たとえ、金銭的な対価が小さくても、そこにある共愉に勝るものがないので、双方が合意の上で行うものであり、つまりは、伴走は、比喩的には「シャドーワーク」なのである。
一旦ここまで。