すぽんじのこころでつぶやく 2021年6月下旬

1 中央と地方との関係は中央に近い人ほど、単純化して捉えがちだと感じる。中央と地方との構造はいわば逆マトリョーシカなんだ。外にいるものはすぐ内側の人形しか見えない構造になっているんだ。一番奥に押し込められているマトリョーシカ人形を想像するのは簡単ではない。ぼくだって北海道の旭川という、北海道では人口第二位の街で暮らしている時はわかっちゃいなかった。圧倒的な漁村や疲弊する農業地、ゴミ処分場を誘致するしか生き残り策のない地域、そういうところで暮らすまで、地方の中にも果てしない格差が入れ子状になって存在していることに本当には気づいていなかったんだよな。ちょっと田舎に暮らしていた人が、東京を眩しそうに見上げて田舎を語ってもいいが、辺境の壊滅的な現状まで語れていると思ってはいけない。ぼくにだって全然語れないよ。。。ICTが助けになるなどと、簡単に言うもんじゃない。

2 日本の後進国化はIT化の状態やワクチン確保接種などから、それと見て取れるわけだ。が、特に年配層中心に、国を覆うマインドはそこまでの事実認識を共有できていない。こうしたケースは、これまでも歴史上繰り返されてきたものだろうか? スペインは? 大英帝国は? 同じようなことが起こったのかな?

3 それにしても「これこれをこのように名付ける」「〇〇理論と呼ぶ」というのに付き合うのはぼくには苦痛だ。個々の人間に果てしない興味があるが、それはそのように考え振る舞う個々の人間そのものにであり、理論には限定的固有な身体がくっついてるもんでしょう、としか思えないのである。

4 そうか、柄谷行人が「探究」で意識的に行ったことは、論理的・体系的な書き方をやめて、エッセイとして書くことだったのか。とても示唆的だな。1984年。

5 目玉焼き。美味しいな。がんばれそう。

6 リスクを分析する主体とリスクを管理する主体とが独立した関係にならないと正常な判断と政策執行が難しいというのはそうだろうと思う。だがそれは難しいよね。普通は管理するために分析するんだもの。

7 この季節の週末のTLは、うまく行かない悲鳴と、できる人の実践見せの両極だな。たった二ヶ月前の、あのきらきらtweetはどこへ行ってしまったのだ、と毒を吐いて潜る。

8 ずうっと目が痛い。乱視と遠視の現実とちゃんと向き合わないと良い原稿は書けないな。

9 安心安全なところにいてそこから発言して一向に構わないんだけど、自分は安心安全なところにいて発言してるんだって、たしなみだけはちゃんと持っていたいよね。。。自戒を込めて。

10 なんかよくわかんないけど泳ぐ。もう泳ぐと決める。まあ、ずうっとつらいんだとおもう。つらいのをこらえたり、しのいだり、しているんだ。でも、一つ一つの仕事のクオリティを絶対下げたくない。7月末まで、ちゃんと足の裏を一回ずつ地面に付けて歩き続けたい。

11 いい立地のホテル。大浴場もある。だけど・・・とても残念なことにDHCだった。もう使わない。

12 ここからぼくは、全てを、感動や努力や情熱や団結で、全力で上書きしようとする流れに、ちゃんと正気でいたいと思う。

13 ぼくの公的な書き始めは、間違いなく児童文学評論だった。その後教育実践記録を書く機会が増え、そちらが中心になっていく…。ぼくにとって書くことは自分の表現欲求の充足の側面が大きいということは、そうした「出自」から考えれば当然だ。だがそれで何が悪いと、居直りたいとも思っているのだ。

14 様々な国語教室で「まいごのかぎ」の季節。教室で暮らしにくいりいこの物語が教室文化に落とし込まれて「教えられる」日々に胸が苦しい。りいこの心中にまだちゃんとある羽ばたきをファンタジーなどという言葉に回収してはつまんない。教える先生、学ばされる子どもたちのど真ん中にある呼吸困難。

15 オープンクエスチョンは、既存の授業の価値観の転換・更新を迫るんだなと改めて思う。これまでの授業観を変えずにそれだけ持ち込んでも、どうにもならないのかぁ。

16 ひどい。ひどい鼻水だ。

17 久しぶりに、八島太郎の「からすたろう』を読み、うなってしまった。来週入る教室で、6年生に読みたいと思う。この時代背景や時代風景が伝わるか、とか、そういうことではない。まさに「普遍の価値」が作品に宿っている。やっと少しだけ、そういうことがわかるようになってきたということか。

18 今朝も1on1オンライン。若手から中堅に差し掛かり急激に力をつけている先生。しかし今回の授業づくりは苦戦中。ぼくと友人とが二人で書いた10年以上前の本を参考にして授業を創ってくれている。感激すると当時に、穴があったら入りたい気持ちになる。不備だらけの実践、不足だらけの原稿。書き残すとは、そういうことだ。「自分の未熟」の記録でもあるんだ。文献情報を付しているので、原実践に当たって、ぼくの実践の薄っぺらさに気づくことはできる。文献記述にこだわって書き記してきて、よかったなあと思う。

19 結局実践者としての自分は、今のところ斎藤武夫さんの足元にも及ばないという自覚がある。誕生日詩集・・・珠玉の実践。高野山の宿坊で多分1996年にいただいたものだ。武夫さんは圧倒的なロマンティストであり、自分との思想的な隔たりの問題は別として、教師はロマンティストであるべきなのだろう。ぼくは、一般的な教師よりはずうっとリアリストなのだと思う。

20 そもそも「教育再生実行」っていう名称にカチンとくるもんな。これは、自分たちの教育施策が、再生させなきゃならないほど破綻しているという自己批判の言葉じゃないもんね。プレイヤーの尻を叩いてもっと走れって言ってるようにしか聞こえないもんな・・・。

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