歩いて行き来する

車をやめたので、1キロと少しの雪道を歩いて、うららの小学校まで出掛ける。参観日だ。うららは昨年4月の転校以来、新しい学校に馴染めず苦労している。ぼくにとっての小学校4年生は半年間に及ぶ厳しいいじめに直面した学年だった。だからというわけでもないが、4年生になったうららのことについて、いじめられているわけではないし、まあいろんなタイミングや折り合いがうまくいかなくて、孤立傾向になったりするのは、担任が悪いわけでもクラスメイトが悪いわけでも本人が悪いわけでもないと思っている。そういう一年間も、人生には確実にあるということだ。

様々な学校に入ると、「参観日に石川先生に授業を観に来られたら担任もううって思うかも知れませんね」とか「参観日で石川先生は教室や授業のいろんなことが気になって話したくなるでしょう」とか聞かれることがある。

確かにぼくは一応その分野のプロだから、授業を観ながらいろいろ思うことはある。だが、それよりも何よりも、これだけの子どもたちと(それは人数の多少の問題ではないのだが)一年間向かい合いながら授業・教室を展開していく担任(ここでいう担任とは、当たり前だが、教科担任も、個別支援で入り込む教員も含めている)はすごいなあということを思う。ありがたい、と思う。

ぼくはたくさんの教員と日々関わっている。学校運営や学年運営、教室経営、個々の授業の進め方などについて、ばん走しながら様々なことを一緒に考える仕事をしている。しかし、いつも思うのは、この子たちのことを誰よりも広く深く知っているのは担任の先生だなということだ。ぽっと学校や教室に入ったぼくには到底及びもつかない広さと深さを背景に担任は子どもたちと接している。担任は自分が担当する子どもたち理解のプロなのだ。それが学校の先生という仕事の一番重要で本質的な価値のところなのだと思う。もちろん子ども理解には果てがないが、でもとにかく目の前の子どもたちと毎日毎日向き合って過ごしていく、そこにおいて、担任を超えるどんな権威も教育システムもない。

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息子や娘の学校の様々なことを、不満や批判、当惑など様々なネガティブな感情を持って、SNSに表出する学校関係者もいる。そのことそのものについて、個々の文脈を共有しているわけではないから、ぼくには否定はできない。ただ、ぼくは多分、決してそのようには書かないと思う。

ぼくは50歳で一度教職を降りて今の仕事をしている。また再び現場で授業をする道を選ぼうとしてはいる。が、ぼくの目の前の担任の先生は、65歳までの時間を多分完走するのだろう。ぼくの知らない経験しない15年間をさらに日々に耐えようとされているのだと思うと、心が震える。教員とは、すごい仕事である。

ちょっと陽に当たってぼやけてきてるけど、多分タヌキの足跡だ。この街には、タヌキが住んでいる。

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