ウクライナ大統領演説とか、ダークツーリズムとか・・・

ウクライナ大統領の国会演説については、ぼくの中でどうにも整理がつかない。よくわからない。そもそも戦地の大統領が戦争中に他国の議会で演説するという状況は、オンライン化された世界で初めて実現可能になったことだ。これまでは考えられなかった、つまり、大方想像もしなかったことであり、誰もこの事態についてちゃんと考えたことなんてないのではないかと思う。
第二次世界大戦下のソビエトから、マイクロフィルムで送られた楽譜をトスカニーニNBC交響楽団アメリカ初演した。有名なショスタコーヴィチレニングラード交響曲だ。それで対独戦時高揚感は否応もなく高まったのだろうが、それも大変なテクノロジーの活用だったのだろうが、今やただの文化交流程度に思えてしまう状況だ。

ぼくは1on1以外のオンライン対話をコロナ下でもほぼやらなかった(いくつか仕方なく引き受けたものはあるが)が、それはオンラインの一方通行性をぼくなりによく知っているからだ。かつて村上春樹の研究をしている過程で、鈴村和成の『テレフォン』などの評論を読んだが、電話が本来一方通行のコミュニケーション機材であるという指摘に深く頷いた記憶がある。両方の人がいる、でも、両方の人がやり取りしているわけではない、片方ずつ喋っている。これは実際の「場」との決定的な違いだなと、当時(1980年代末)既に感じていた。zoomコミュニケーションに代表されるオンラインコミュニケーションも本質的にはこの鈴村の指摘を全く乗り越えられていないと言ってほぼ間違いないだろう。

ディベートのようなルールのある討論ゲームは別にして、議論というのは白熱するほど本来溢れる思いを同時的にかぶせ合いながら展開されることを宿命としている。それが議論というものだとすると、この国会演説は最初から当たり前に、ほぼ議論の余地はないわけだから・・・。

この戦争が終わったら、おそらく、チェルノブイリ以上のダークツーリズムがウクライナで展開されるだろうと、不謹慎を覚悟で、そう思う。そのことについても、ぼくにはどうにも整理がつかない。

さらに不謹慎に言えば、コロナ以前に爆発的に広がった世界から日本への観光旅行は、やはりダークツーリズムだったのだと思う。没落する先進国の没落ぶりに郷愁と教訓を重ねながら、世界の人々は日本にやってきていた。そのことに無自覚な(あるいは知らないふりをした)政治家も国民も幸せなのか愚かなのか。

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