最近読んだ本から その42(追記)

作文教育に関しての本をいくつかまとめて読みなおした。久しぶりに必要に迫られた読書である。

多賀さんの本は、作文教育に関わる教師の熱に触れる本。皆さんどこかで読んでみてほしい一冊である。今回、衝撃的だったのは、上條さんの見たこと作文。ぼくは中学校で上條実践を丁寧に追試しようとした数少ない一人と自認している。この本は何度も読み直してきた。が、あらためて読み直してみて、この本の凄みを全然わかっていなかったのだと知る。ここには、今、「探究」などと呼ばれているものの圧倒的な実践記録と技とが埋め込まれている。練り込まれた手順の意味もわかっていなかった。驚嘆した。ふんだんな作文そのものの紹介は、作文教育において、作品そのものが実践の意味(質というより以上に)を雄弁に語ることをよく知る実践者のふるまいだ。この点は、多賀さんの本も同じだ。

その点で言えば、『作家の時間』の方は思い込んでいた以上に作品の紹介が正直に言ってお粗末だった。そこではないと著者群は言うのかも知れないが、ぼくは、そこでしょ、と言うしかない。増補版でどこまで改善されているか目を通していないので、そちらで大きく改善されているなら謝るしかないのだが・・・。少なくとも今実践者としてWWに取り組もうとする時にぼくが欲しかったものは何よりも作文作品的事実だったのだが、これはもう前掲の二冊とは比べ物にならないほど薄かった。慌てて自分のかつての教え子の作品を引っ張り出してきて、子どもたちに紹介したのだが・・・なぜこういう構成になっているのだろう。

徳島の教室にあった本。餌付けスレスレの振る舞いには批判もあろうが、とても面白い一冊だった。

(追記:2022/04/24)

それで、『作家の時間』の増補版も早速読んでみた。これは帯惹句の通り「中高の国語」「高校の英語」も追記したもの。ちょうど今入っているクラスに「英語で書いてもいいですか」という子がいて(もちろんOK)、そうした視点からも興味深かった。しかし、前掲のぼくの疑問に答える形での増補ではなかった。

さて、それで、なぜそうなっているのか、メモ程度書き残しておきたい。

日本の民間系作文教育本は、無着成恭さんにせよ鹿島和夫さんにせよ、とにかく長いこと、書き方を示す本ではなく作品を紹介する本だったとざっくり感じている。そこにメスを入れて、作文メソッドとして書かせ方(嫌な書き方だが)をしっかり記述したいからだという文脈がありそうだなとは思う。もう一つは、当時と違って個人の作文を載せることについてのコンプライアンスの面でのハードルがめちゃくちゃ高くなったということがあるのだろう。

一方で、チャレンジしたい気持ちを促すのは、実は圧倒的な作品(上手なという意味ではない)、あるいは圧倒的な変容(相対値ではない、その子にとっての変化だ)が見える時である。その意味では甲斐崎さんの担当されている部分はさすがで、ぼくも食い入るように読んだが(実際作文も載っている)、後は・・・。これまでぼくにライティング・ワークショップに挑戦したいという先生の少なからぬ人たちが「何か子どもたちに読ませたい作文はないのでしょうか」と尋ねてきたのだが、改めて自分が当事者になって、ああ、そういうことだったのかと思った次第だ。