すぽんじのこころでつぶやく 2022年5月上旬

1 今朝もペレーニのハイドン。オケもいい。往年のヴァルハル&スロヴァキア室内管やソフィアゾリステンなどある時期の東欧の室内オケが持っていたおくゆかしさとふくよかさとがここにはある。

 

2 その方法ではない。

3 昨夜古い友人から連絡があった。また一人ぼくよりも若くぼくよりもずうっと誠実で優秀な仲間が病に倒れ亡くなった。もっとたくさん話しておくべきだったのだ。学生時代耽読した泰淳の『司馬遷』を思う。自分は無様に生き残っている。

 

4 転勤で帯広から広尾までの国道を走りながらどんどん暗くなっていく道路照明と風景に驚いた。光が斜めに差す場所。20年前。深刻な過疎化とコミュニティ崩壊が南十勝を襲っていたが都市部にいたぼくは知らなかった。あの時の風景がいまや日本中の大都市圏のすぐ隣にある。「斜陽」とは実に体を表す言葉。

 

5 北海道だけが雨らしい。道北は寒い。初秋のようだ。動けない。なにしろ今の気温が5度なのだよ、名寄。

 

6 今日は道北の遅い桜を見たい。ヤマザクラ。連休唯一の晴天。太陽が昇ってきた。

 

7 できるだけ控え目に書こうと思うけど・・・今朝も若い友人と対話したのだが、「学びに向かう力・人間性等」の評価に悩んでいる先生の多い事多い事。。。そもそも「資質・能力」って何だ。何度も書くけれど、僕は誰かに自分の学びに向かう力・人間性なんて評価されたくないのですよ、本当は資質や能力も図られたくない。いや、おそらくみなさんそうでしょう。まあそのうち資質・能力を図るのも、三計測みたいに空気みたいになってみんな受け入れるようになるのだろうか。 国が国民の人間性を評価するという傲慢な展開(とぼくには見える)をどう捉えたらいいのか思い悩む。それにですね、たいていの教員がどうしたらいいかわからない評価なんて理屈はいろいろあっても、使い物にならないって事なんじゃないだろうかねえ。ぼくはアナーキーに過ぎると思われているんだろうな。でも自分としてはすごく真っ当に自分の感覚を言葉にしているに過ぎないのだが。公人としてはどうすればいいかわかっている。中庸に問題の起こらないように評価する術も年寄りなりに身についている。そういうこと。

 

8 バスはうれしい。田舎のバスは好き。

 

9 結局ぼくはこの3年ほど一体何度旭川に足を運んだのだろう。かつてぼくが暮らした街とはいろんなことが変わってしまったのに、当時のままのものも突然そこかしこに現れていつもどうしたらいいかわからない気持ちになる。

 

10 汗だくで梱包した。ほぼ終わった。後15箱くらい中学年以上の読み物中心の箱が残ったが、これで最後かなと思う。長いこと本当によく頑張ったな。とは言えまだ本が終わっただけなんだけれど。

 

11 一所懸命働いたら、バスの時間も逃してしまった。どうやって帰るかな。。。

 

12 歩くか。

 

13 結局髪も切れなかったな。時間がなかったな。いろいろ。本を買わなくちゃ。本を整理して店じまいしてまた本を買う。何だか変な話だな。

 

14ヒラマ画廊収蔵品展。ジュンク堂ギャラリー。

 

15 今朝は5時、6時とお二人の方と対話。7時の約束の方は辿り着けず。また日程を調整すればいいよ。大丈夫、ぼくはずうっと門を開けて待つと決めてこの仕事をしていますから。

 

16 最後の桜を満喫した。エゾイチゲも。エゾヤマザクラの、さらにはチシマザクラの楚々としたたたずまいが好き。北海道北部の桜にはぼくらの北の生活に似つかわしいつましさはあっても幽玄さや深淵さ、霊的な畏怖を感じたことはあまりない。

 

17 家の本。今日10箱配送し、この後手渡し分が数箱あるけれどほぼ片付けが終わった。この後は母の趣味だった食器。そして絵画。本のゴールが今日見えて、すごく疲れが出たなあと思う。本は我が家そのものだったのだと思う。帰りがけに父にも少し会えた。

 

18 みぞれかと一瞬思う雨。周辺の山は雪だろう。クヌペク(クンウーパイク)とヴィト&ポーランド国立放響のプロコフィエフ。これがほんと素晴らしいのだ。

 

19 いろんなことがのしかかってきてもひょいひょいと過ごしたいんだ。

 

20 長い一日だったなあ。一つひとつ質を落としたくないんだ。

 

21 今朝は鶴見区でワカケホンセイインコを見た。そうか川崎や横浜でも普通に暮らしているのか。

 

22 今日の現場へ。今日は軽井沢。学校研修ではなく個人ばん走。

 

23 昨日軽井沢に行って頭の中がグルングルンしたのは、実は斬新なデザインの校舎とか不思議なカリキュラムとかそういうことではなく、教師の立ち方とか在りようとかについて、内省を迫られたからである。ざらりと言えば転倒した場所(ひっくり返した場)で何が見え何をどう考えるかというあたりだ。おそらく多くの教師にとってはここはまだ過刺激な場所だろう。新規奇抜と見えるものに目が行きがちだろう。あるいはチャレンジ途中の不安定さに目がいくかも知れない。でもこの場所の公立学校へのインパクトはそれではないと思う。ここは鏡の国だ。いわば姿見の場所だ。少なくともぼくにはそうだった。今年ぼくは学校に戻っていてよかったなと思う。ちゃんと鏡に映る頑張ってるけど少し残念な姿の自分があった。これから江戸川の小学校。丁寧にできることを差し出してこようと思う。

 

24 今日はちょっとお墓参りは無理かあ。次6月には必ず寄ってこよう。

 

25 戦後学校教育は不定型な場所で非構成な授業を行うという経験をほぼ持っていない。非構成な授業にチャレンジしてきた人たちは皆、定型的な場・カリキュラムをどれだけ緩められるかに知恵を絞ってきたのである。つまりあまりにも構成的で定型的な場にいかに緩みを加えるかという方向でのチャレンジだ。非構成・不定型をデフォルトにしている場所では、非構成な授業はむしろ新しい当たり前過ぎるのではないだろうか。十分に機能しないのではないか。

 

26 キッパリと言う。「学校」は時に自己目的化してでも持続可能と継続を宿命づけられている場なのだ。外から入って実証実験だの実践トライアルだのやってもいいが、やる側に持続可能に調査し続けその過程を(期待した結果が挙がらず都合が悪くても)公表したり撤退したりする意思がないのなら害だと思う。

 

27 「今の時代はたとえ多くの知識を手に入れてもそれはすぐに陳腐化してしまう」と言う。この時どんな知識がどのようになった状態を陳腐だと指摘しているのだろうか。そもそも知識は陳腐になってはいけないのだろうか。最も本質的で重要な知識(というようなのがあるなら)それは陳腐なものなのではないか。

 

28 佐田達枝さんは稲子さんの娘さんなんだね。今日まで知らなかった。

 

29 義父が亡くなりました。色々連絡滞ると思いますがお許しを。それにしても、死ぬのにもお金がかかる。葬儀屋さんばかりがどんどん儲かる時代か。

 

30 そうっと目を閉じて、見なかったことにしたい、そんなことばかりだ。