すぽんじのこころでつぶやく 2022年8月上旬

1 そうだな、ぼくにも長いこと風が吹いていない。

 

2 奥尻から採水したボトル。ありがたくいただいて眠る、どこの水でもいいぼくの体は大雑把で、凡庸だ。ぼくらが汲んで行った水をちゃんと断って、田中信昭先生はこれが合うのですと言って、鞄の中からヴォルヴィックを出したっけ。輸入の無くなったヴォルヴィックの後、先生は何を飲んでおられるのか知ら。

 

3 紅茶花伝ロイヤルミルクティーが好きだが、飲むと必ず腕にかゆみを伴う発疹が出る。

 

4 ニワトコ、ツリガネニンジンオオハンゴンソウ、ヨツバヒヨドリ、オオイタドリ、ノリウツギ。。。ノリウツギ(サビタ)の美しさが、少しわかってきたなぁ。

 

5 20数年ぶりのチキウ岬は一時間20ミリの大雨だった。かつては多分晴天ででも大きな嵐の中だった。今日はひどい嵐の中だが、ぼくは十分に歳を取った。

 

6 安倍晋三氏狙撃犯減刑署名というのがあるらしい。私は身内が犯罪を犯した時に減刑署名が広がってとても傷ついた。私の身内のことなど本当は何も知らない人物たちがこぞって署名する。署名しましたよとよく知らない人に声をかけられたりした。怖いことだった、実に無遠慮で無神経な事態だと思った、

 

7 今日は、ハネナガキリギリスの捕獲に失敗しました。田んぼにいるというのは、なかなか賢い。ちょっと思い切って踏み込みにくいいろんな条件が揃っていますね、あそこは。

 

8 行政官も政治家も、しがらみから自由でい続けるのは難しいんだろうな。湧き上がってくるようなヤフコメの酷さも悲しい。

 

9 今日でたずねびと終了。二人だと早い。かつて極小規模校で一対一で国語の授業をしていた感覚を思い出す。あの感覚は40人授業への違和感繋がっていたはずだが、感覚は時間と状況と経験も瓦礫に埋もれていくんだな。思い出した。明日は何を読もうかな。

 

10 少し話題がズレてるかも知れないが、現場では「手本」と「モデル」の混同もしばしばあります。例えば国語科の読みの場面における演劇的なアプローチなどではモデルはとても重要と思うのですが、これを「お手本」の提示と理解してしまい「お手本」を見せるか見せないかという議論にしてしまう人も多い。

 

11 夜中、熱中症になった。全く寝付けず、ひどい頭痛と動悸がやってきた。年寄りは、寝ている時に熱中症になるのだという。こういうことだ。午前中は、乗り掛かっている学校の先生方と授業改善の進め方をどっぷり話し合った。本気の人たちと話すのは刺激的で楽しい。熱中症も治まってよかった。

 

12 人には収まるべきところがある。ちゃんと収まるべきところに収まるように決まっているのだと思う。

 

13 朝から蝿にたかられている。嫌な匂いでも出ているのだろうか、ぼくから。

 

14 知事と市長の温度差は今年も大きかったな。湯崎さんはインテリジェンスの中に怒気を孕んでいた。今年はうららと初めて一緒に見ることが出来た。この夏に行った「たずねびと」の授業的対話にはきっと意味があったと思える時間であった。

 

15 次に戻る時には、今年は久しぶりの順調に、北海道は秋かも知れぬと思った。

 

16 ぼくはやっぱり間に橋を掛ける仕事をしたい。あちら岸もそちら岸も立派なものをこぞって建築してくれるのでしょうけれど、このままではアテネとスパルタのようになってしまうものねえ。

 

17 強靭な魂と。倒れ切らない肉体と。ここは、東京だ。

 

18 あれ 帽子はどこへ行ったのだろう。

 

19 夜のうちに蛾がいっぱい光に集まっていたんだな。眩しい光から目をそらすのは難しいんだ。よーく見ると茶色の卵塊が壁のあちこちに付いている。全国的なマイマイガ大発生が再びやってくる年が近づいているのかも知れないな。

 

20 公共交通機関の将来をたくましく議論してくれる人はいないんだろうか。。。

 

21 OHPもワープロも学校には達人がいた。が多くの教師にとってはその腕は要らない、できそうもない(と思われる)ものだった。ビデオを授業でつかえるだけですごい時代があったくらいだから。先生のストライクゾーンはその頃と大きく違っていない。ここら辺から考えないと難しいのよ、と諦観も孕みつつ思う。

 

22 ぼそっとつぶやきますけど・・・

豊かなものがちゃんと外にあることを、ネットでもテレビでも都会に足を運んでも思い知らされる中で、自然はいい、田舎はいい、は、生活者の実感とはかけ離れていることが多いですよね・・・。北海道は、収奪されてきた場所ですよね・・・。

 

23 ドヴィ・エルリ。こんなに素晴らしかったのか。。。

 

24 映画・音楽・物語…質があるように、絵本にも質があるよね。。。20代の頃、赤木かん子さんと渡辺順子さんと鼎談した。北海道子どもの本のつどい苫小牧。あの時は良書を連呼する渡辺さん(閉口した)とそれに怒る赤木さん(困惑した)の間で小さくなってた。でも今、ぼくは「良書」を連呼する渡辺さんには与しないけど、あの時の赤木さんほど断定的になんでも良いとは言わないと思う。やっぱり絵本の質がちゃんと問われると思ってる。

 

25 届かない手紙を待つようなものが人生であると思っていたが、そうではなく、届かない手紙をあきらめるようなものが人生であるとわかってきた。ぼくもまた誰かに届けられなかった手紙がたくさんあるのだろう。待たれているともあきらめられているともわからずに。

 

26 調子が悪いなあと思っていたら、例の光がやってきた。偏頭痛かぁ。心臓のこととか色々書くと心配して連絡をくださる方がいるが、これは教員時代に戻っただけ。今学校に半分戻って、6年前に戻っただけです。学校とは、ぼくにとってもそういうところってこと。救心も常用していた時期に戻っただけ。

 

27 今年は楽市楽座は見れそうにないな。でも木田金次郎の作品たちには再会できた。

 

28 いつもおもしろそうにしている(ようにみえる)先生の子どもたちへの影響はそりゃあ大きいだろう。その意味でなら教材研究をおもしろがる姿が滲み出る授業が日常ならば子どもたち自身の学びに向かう姿への影響は大きいはずだ。呟いてわかった…この案件、学びか学習かという議論も横たわっているのか。

 

29 そもそも10年以上前から

先生「自分がされたらどう思うの」

子ども「別に、おれされてもいいし」

という会話は普通なので、「自分がされたら嫌なことは人にしない」という指導は、指導が上手と目される先生はほぼ使いません。一番最初は「帰れ」と言ったら本当に帰っちゃう児童生徒の登場あたりがスタートで、これはもう20年以上前のはず。

 

30 少し前から、平河エリさんのLGBTQに関する一連のtweetとそれに対する反応を丁寧に読んでいる。困ったなあと思うのは、様々な立場乱れ飛ぶ中で、初めて聴く用語、耳にしてはいるが微妙な違いやニュアンスが理解できない漢語的用法、外来語が、頻出することだ。ぼくも学校教育界隈でやりがちなことなんだと思うが、これが本当に理解を遠ざけ、コミットしようとする意欲を失せさせることを実感する。やりがちなことと書いたが、そもそも関連する様々な新しい概念を説明する訳語が追いつかないという問題がある。その外来語、その漢語的用法を使うしかないという問題は、分断を生む温床になっていて、きついなあと思う。

 

31 良いことも芳しくないこともある。禍福は糾える縄の如し。素敵なことば。

 

32 なんだっけ、クラブハウスだっけ、今はスペース? 間違ってどこかのボタンを押しちゃった以外は一度も関わったことがない。ぼくはこうしたものにほぼフォーカスしない。そもそも学校教育に特化してそんなものを聴いている人は本当にわずか。好きな人は大いにやればいい。趣味的なものと政治的な影響のあるものとが一緒くたにされて見えてしまっているんだと思う。話題にするのもこれ一回きりだ。

 

33 まず、呼び捨てしないこと。「安倍」「岸田」「泉」「吉村」「志位」・・・自分と考えが違うと思える相手でも、ちゃんと自分が呼ばれるに相応しいように相手もそう呼ぶこと。呼べるような自分であり続けることが、対話のためにどうしても必要なことだとそう思っている「安倍さん」「岸田さん」「泉さん」「吉村さん」「志位さん」と。