授業を見るということ

先日、数年ぶりに山崎正明さんといろんな話をすることができた。ぼくが1日授業・学級公開を続けていたことは、そしてぼく自身が山崎さんの美術教室を一日見せていただくために千歳まで赴いたことが(二度お伺いした、授業づくりネットワーク誌にその記録も掲載している。NO12だったかな。)、山崎さんには鮮烈だったらしい。今回もそのことを話されていた。

学校でしなやかに生きるということ

『しなやか』の本の中でも書いているが、その方法自体は杉渕鐵良さんに学んだものだった。杉渕さんはずうっと1日公開を続けておられたから(ぼく自身は行けなかったけれど)。

詳細は話さないが今、週3回入っている小学校には、色々情報に辿り着いた先生や教育関係者が授業参観に来られるようになった。学年の先生にも子どもたちにもちょっと過刺激だなと思いながら、管理職に相談して受け入れている。

実は、以前とは立場も状況も全く違う中で受け入れているので、色々頭の中がぐるぐるしている。ぼくの今の学校のことを詳細にお話しすることはできないが、授業の計画をぼくが自由に立てられる状況ではないし(時間講師だから当然だ)、かつての北海道時代のぼくの授業とは(いろんな本に書いている授業とは)やっぱり色々違っている。ほんの一瞬だけど、一体ぼくの(ぼくの授業の)何を見にいらっしゃってるのだろうか、と思ったりもする。

思えば、ぼくはたくさんの先生の1日を拝見させていただいた。それは、有名な方から知る人ぞ知る人、さらには全く無名の若手まで、自分の感覚で決めて、時には全く見ず知らずの先生にアポイントメントを取る形でお伺いしていた。ぼくが授業を見たいということの基準は、レジェンドとか憧れとか、そういう話とは全然違っていた。かなりはっきりとした自分の思いや願い、視点があったと思う。退職間近の先生の授業もたくさんみせていただいたが、それにはぼくの止むに止まれぬ事情もあった。

うーん、何を書こうとしたんだったかな・・・。

とにかくぼくの授業を見にくるのは全く構わないのだが、ぼくは50代の半ばを過ぎたいわば盛りをとっくに過ぎてしまった教員である。本当に授業の腕を上げたいのなら、学級の様子を知りたいのなら、現役世代バリバリの先生の1日を、自分の目利きで見つけて観に行けばいいのにな、と多分腹の底では思っている(笑)。そして、自分も一日授業教室公開をすればいいのになと思っている(笑)。十勝の東拓さんとか、まさにその意味をよくよく理解されていたのだろう。だから、今、自分の教室・授業を1日公開しているのだと思う、自信があるからではない、意義も価値も十分に理解されているからだろう。

やや冷や水を浴びせるようで申し訳ないが、それが本音だ。

あ、でもどうぞ管理職の許可が降りる分については遠慮なくいらしてください、寂しがりやなのでかまってもらえると嬉しいです。