これは素晴らしい本だった。ぼくが今かつてのように北海道の中学校教員だったなら、これもかつてのように、自分で全員分の本を買って(自腹で持ち出しして)、子どもたちみんなと読書クラブをする、そういう一冊だと思う。
うちの娘は今中1だが、この本を読めるかな。多分来年かあるいは中3の夏に、彼女と一緒にペア読書したい。そういう一冊だ。
そのくらい深く感銘を受けたのだが、この後の書評と呼べない、感想としても酷い文章で、下手をするとこの本に傷をつけてしまうのではないかと、実はビクビクしてしまっている。でも許してほしい。ぼくはこの本の書評書きにすでに2回トライし、敗退し、今回が3回目なのだよ。
ぼくはここしばらく、数年ぶりに、記録する(特に授業を記録する)ということへの関心が強まっている。
さまざまな授業の記録の本、もしくはそこから派生する本を読む際には、どうしても、それがどのように記録され、それが(多分)どのように伝わり、どのように伝わらないか。そういうことに強い関心が向く。また、ぼくが記録することへの関心が急速に高まるということは、ぼくが自分が書くということに行き詰まっていたり、書くことについて途方に暮れていたりする時でもあるということだ。それは自分の経験的によくわかっている。そういう時期に澤田さんから送られてきた『君の物語が君らしく』は、ぼくに何か書くことを突きつけてくる本であり、しかもどう書いたらいいかわからなくなるに決まっている優れた本であることも間違いないわけである。
『君の物語が君らしく』は、見事な(本当に見事だと思う)題名の通り、その読者は書き手としての「君」、であり、その「君」は概ねジュニスタという枠組みの中から刊行されたことも含めて、中高生(含小学校高学年)を想定して書かれたものだろう。
澤田さんと初めて出会ったのは、彼が当時のぼくの北海道の中学校教室を訪問してくれた際だった。約二日間他の数名の方々を交えながらゴールのない対話がずうっと進められていく面白い時間だった。その中で交わされた中でいくつかは今に至るまで強く心に残っている。中で一つ澤田さんが、たくさんの教育書を書いてきたぼくの仕事のことを考えながら、「いやあ、ぼくは石川さん(今は晋さんと呼ばれることが多いが、当時は石川さんだった)のように本とかは書かないと思うなあ」と言ったことが強く心に残っている。その後澤田さんは「イン・ザ・ミドル』の翻訳を物したが、それは彼の創作ではないし、そもそも彼が多少の揶揄を込めて言ったのは、実践記録の本は書かないなという意味だったと思う。
それを根拠にするなら『君の物語が君らしく』は当然澤田さんの実践記録の本ではない。したがって、冒頭のぼくの問題意識とそもそもすれ違う一冊ということになる。はずなのだが、この本はもちろん澤田さんの授業実践の記録の本なので「も」ある。
例えば澤田さんは学芸附属中の渡邊裕さんの授業に着想を得た「五行詩づくり」の実践を「発見のためのエクササイズ」として紹介する。「ヘンテコバッテリー」と題された「リク」さんの作品が紹介されている。その詩はなかなかに面白い。だが、ぼくが瞠目するのはその作品ではなくその作品に付けられたいわば「評価文」なのである。その評価文は平明でわかりやすく、何よりもリクさんの心にまっすぐ届くだろうと容易に想像できる。しかし、その作品の背景にある作品群への深い理解、意味のねじれ(転換)を巧みに取り上げた分析・・・これはもう圧倒的な専門性の産物というしかない。
面白いのは、この評価文が、本という体裁の中で届けられた時に、ふむふむなるほどと読めてしまうことだ。これが例えば教室で実際にこの作品が生まれ、その作品に寄せられた評価として声掛けされたり、あるいは評価文として渡されたりする場面を想像してみると、きっとまるで違った印象を受けるだろうと思う。おそらくたいていの教師であるなら、これは真似できそうもない、と思うに違いない。もちろん澤田さんはこの本を授業記録の本としては書いていない(はず)だから、どこかの先生が真似しようと思って読んだりすることを想定していないのだろうけれども。でも、学校という場所を舞台にして書く活動が営まれていく以上、そのほとんどは、教師のデザインの中で行われていく活動だから・・・。
うーん、違うなあ、ぼくが書きたいことはどうもこちらの方ではないようだ。
この本で極めて特徴的なのは、7章「書き手の権利10か条」だ。「1 読まれない権利」から書き起こされていくこの10か条の多くは、私自身が、新卒の時期から今に至るまで子どもが書く作文(そのあらゆるプロセス)と自分との距離を測りかね続けている問題がなんであるのかを実にクリアにしてくれる。ぼくは長いこと作文の授業の中で子どもが見せたくないという作文を見ないで成績をつけてきた教師である。見ないでつけられるのかという問いに対しては、それはそもそもぼくと子どもとの問題ではなく、子ども(人)が表現するものに子ども(人)の許可なくぼくがアクセスしていいのかという問題であって、学校というところが本質的に内包している問題が噴出しているということだと、半ば開き直ってさえきた。澤田さんはこの問題におそらくぼく以上に真剣に向き合ってきた実践者である。そして彼がその問題に(暫定的に?)どう彼なりの答えを出して実践を進めているのかも、彼と何度も話をし、彼の授業を見せていただく中で、ぼくなりにわかっている。
最初の方に「君」はもちろん中高生の「君」であろうと書いた。でも、ぼくの経験から言えば、この本に自らの力でたどり着く中高生はそう多くあるまい。かつて、ぼくの読書教育の師の一人とも言える今本明のキャリアの最終盤の教室を訪問した時、今本はカラーボックス一箱しか無くなっていることに(かつては教室に何百冊も本を置いていたはずだ)いささか拍子抜けしているぼくを見ながらこう言った。「晋くんね、子どもは大人がちゃんと手渡してあげないと、本には辿りつかないんだよ。ぼくはね、もう自分で確実に手渡せる冊数しか教師に置かないことにしてるんだ」
多分授業づくりネットワークのどれかの号に(ああ、2013年のNO.10だ)その日の記録の様子が10ページくらいにわたってまとめられていると思う。
http://suponjinokokoro.blog112.fc2.com/blog-entry-1913.html
今本明さんの教室を訪問した時のブログ記録は上。
いずれにしても、この『君の物語が君らしく』も結局大人が(多くの場合は先生が)目の前の中高生に手渡しすることで読まれていく可能性が広がる本なのだと思う。今、教室の先生方は、よき読み手として本を子どもたちに手渡していく人であれているのかな。みんな、ぜひそれぞれのスタイルで、この本を子どもたちに届けてあげてほしいと思う。



