桐田敬介さんに書いていただきました。
2018年2月9日。
64号。
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メールマガジン「教師教育を考える会」64号
2018年2月9日発行
「教師教育のための<風景>論」
上智大学共同研究員、LEAP JAM共同代表
桐田 敬介
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64号は、桐田敬介さん(上智大学共同研究員、edu:re共同代表)。新しい学校支援の形を模索する若手研究者です。注目です。 (石川 晋)
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初めまして、桐田敬介と申します。
現在の肩書きは主に、上智大学共同研究員、一般社団法人こたえのない学校リサーチフェロー、公益財団法人クマ財団職員、任意団体LEAP JAM代表...。過去には学童で放課後支援員、プレーパークでプレイワーカーをしていたこともあります。
なかなかまとまりのないキャリアですが、学校教育・社会教育周りの実践と理論研究を続けている、多動気味な31才男性と思っていただければ幸いです(笑)。
1
僕の修士論文は、じつは教師教育学と教科教育学を掛け合わせたような論文でした。タイトルは、「高学年造形遊びにおける授業者の専門知に関するナラティヴ的探求」。図工専科の先生の専門知を学びに、とある小学校へ通っていました。
一人ひとりの子どもが図工室を活発に行き交い、試行錯誤しては洞察を深めていく様子や、黙々と自分の世界へ没頭していく一時間半くらいの様子をビデオにおさめ、授業の後には、先生と授業について少しお話をして、その後はビデオを文字起こしして、授業の流れを分析・解釈して...という地味な作業を5年間くらい続けておりました。
その他にも、自分の指導教授である上智大の奈須先生とそのゼミ生たちと、長野の高島小学校や伊那小学校、岡谷小学校、横浜の大岡小学校、新潟の大手町小学校、富山の堀川小学校、奈良の奈良女子付属小などなどへ伺い、日常の授業風景を1日通して参観させていただき、その後、みんなでその日の授業について語り合ったり話し合ったりするという日々を過ごしておりました。
特に長野の高島小学校に関しては、研究紀要を第1号からテ
クスト分析をして、高島小学校の教師たちがどのように子どもたちと共に「白紙単元」(教師と子どもたちとが共に年度カリキュラムを作り上げる、高島小独自の総合学習)を立ち上げてきたのかを、考察するなどの研究にも携わらせていただきました。
2
こんな風に、日本の教育史を紡いできた市井の先生たちの日日の葛藤と挑戦を通じて育まれてきた専門知を、僕は主に「ナラティブ」と「風景」というレンズを通して見つめてきました。
「ナラティブ」(語り)というのは、「言葉にできること」、「人間がこれまで言葉にしてきたこと」です。こう捉えると、いわゆる理論知も、教育の実践史も、人間が「言葉にしてきたこと」ですので、とても遠大な範囲がこの「語り」の中に含まれます。
一方「風景」とは、教室の環境、学校の状況、授業の動き、社会の動向、家庭の環境、先生や生徒の身振り、目には見えないが直感されてくる感情、過去から蓄積してきた体験...そういったものが渾然一体となった、「容易には言葉にできないこと」「言葉にされていないこと」です。
この二つのレンズを通して先生の専門知を見つめてきて得た暫定的な結論を一言で言うと、「授業の技、子どもを理解する視点といった実践的で専門的な生きた知識は、先生一人ひとりの<個性的な風景>に基づいて育つ」というものです。
ですから、教師教育に限らず、教育や学習について考えるときに、僕のよく考えることは、この「語り」と「風景」の両者をどう行き来するか? あるいは、実際にどう行き来しているか(あるいはしていないか)?ということです。
なぜなら、あらゆる明示的な知識(言葉にできるor観察できる知識)は、「風景を語りに対応させること」で生まれるものであり、あらゆる非明示的な知識(これと示せない直感や感情、世界観)は、「風景を共有していくこと」でじわじわと育まれるものだからです。
人は、身を切るような苦しみの感情を、「哀切」や「諦念」という言葉が思い浮かんだ時に「まさにそれだ」と何かほぐれるように感じることができる一方で、言葉にするには文脈が入り混じりすぎて複雑な風景を、ただそこにいるだけで共有できもする不思議な存在です。
例えば、複雑な家庭事情やアイデンティティを抱えた子どもの一言に、みんながハッとする。でもこの「ハッ」を感じ取るためには、その子を取り巻いている複雑な社会的な関係性を了解できるだけの、幅と奥行きのある風景を共有しておく必要があるのです。
僕は、学ぶということは、この語りと風景の往還の中で、語りに用いる言葉を豊かかつ精緻にするとともに、身体を通じて感じ取ることのできる風景の複雑さ、その幅や奥行きを広げていくということだと思っています。
教師教育という教育の領域も、この原則から切り離されたものではないのではないか。この文章を書きながら、僕はそんなことを考えているようです。
3
さて、数学者の岡潔は、数学を「情緒の表現」だと論じました。彼の論立てを細かく見ていくと、情緒とは「感情と風景が一体になったもの」、例えば野の花を見て「いいなあ」「すごい!」と思う、その瞬間の心の動きのことを言っていることがわかります。
僕は岡潔のファンでも研究者でもないのですが、教師教育も学として成立するとすればこの「情緒の表現」が核になるかもしれない、と感じています。子どもの言葉を聞いて「いいなあ」、先生の返し方を聞いて「すごい」、子ども同士のやり取りを聞いて「面白い!」と感じると同時に「ハッとさせられる」。
そのような授業の中での情緒の動きを、どのように表現し、いかに高め、異なる「風景」を持つ人々の間で共有していくのか。その共有のための方法を学として体系化して行くことが教師教育の本質ではないかと、僕はここでこっそり暴論しようとしています。
先生は一人ひとり、自分の心の中の風景、教科の風景、教室の風景、学校の風景、社会の風景を行き来しながら、自分の実践を言葉にし、語り始めます。しかしそこを簡単なコトバでまとめてしまうと、生き生きとしたその先生ならではの<個性的な風景>の蠢きがどうにも消えてしまう。
世間で取りざたされている言葉に安易に飛びつくことなく、先生一人ひとりが自分自身の人間としての土壌を作っている豊かな風景に出会い直すような、渋くもポップな「ほぼ日」のような場所を、これから作っていきたいなと思っています。この3月にも、いくつかイベントをやる予定です。ご興味ある方は、ぜひお越しくださいませ。
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桐田さん、おもしろかったです。ぼくは卒業論文が村上春樹論でした。柄谷行人の「風景」論を、作品分析に援用しながら、なぜかぼくには一方で北海道の片田舎で過ごすぼく自身の物語を紐解いていくような実感がありました。ディスカバーインジャパン以降に、「発見」されていった「風景」が、私が暮らす旭川・美瑛・富良野と連なる丘陵地帯そのものだったからでしょうか。
当時ぼくは作品世界に耽溺し、作品と語らいながら、何事かを明らかにしたいと背伸びしていたわけですが、今、四半世紀を経て、桐田さんの、世界へのアプローチの仕方に触れる中で、ぼく自身の課題意識が、うまくつながりながら、ここまでやってきたのだなと気付かされるような、そんな感想を持ちました。桐田さん(の文章)との「対話」によって、ぼくの中の何かが見えてくるということでしょうか。
まもなく始まる桐田さんの新しい冒険が楽しみです。ぼくもぜひ協力させてくださいね。
