次年度(2021年度)の伴走について(1/22)

f:id:suponjinokokoro:20210122130308j:plain
2021年度はどうするのか、という問い合わせをチラホラいただくようになりました。ぼくが考えていることを出来るだけシンプルに書いておきます。

①今年度はコロナで予定はぐちゃぐちゃになりました。一学期から順調に伴走を行う予定だった個人・学校はいずれもその通りにはなりませんでした。特に、今年度新規でお引き受けしていた個人・学校との仕事については、ぼくとしても不完全燃焼な感じになっています。

②そこで、2021年度は今年度と同じように個人・学校の伴走にご希望があれば入ろうと思っています。研修会ラッシュになる秋はどうしても過密になることが予想されますので、ご希望の方は早めにご連絡ください。既に学校単位での日程の確定は結構進んできています。個人伴走をご希望の方は、希望の意向だけでも先にお話しください。

③関東圏と北海道以外の地域の個人支援は、できる限り複数名で連続する日程を調整の上ご連絡ください。パートナーが見つからない場合は、早めにご連絡ください。相談に乗れます。

④金銭的な条件などについては、改めて個別にお知らせしますが、原則は、個人でのご相談については、今年に準じる形、つまり講師謝金10000円+交通費往復(宿泊が伴う場合は宿泊日も)を考えています。

⑤ご希望の学校・個人は、まだ次年度のことははっきりしないと思いますが、まずはご一報ください。

⑥なお、2022年度はフルタイムでどこかの公立学校に潜り込むつもりです。ですので、この形での伴走は次年度で一旦終了です。2022年ー2023年の継続研究の伴走を想定されている個人・学校は最初にご相談ください。

では、よろしくお願いします。

 

 

伴走についての、ほんのメモ

「伴走」についてコメントするのは、今の僕にはとても難しい。

でも、あるブログ記事を読んで、色々考えたので、メモを残しておこうと思い立った。

一つ自分が実感として言えるのは、そして、だからこそ昨今の「伴走」プチブームに違和感を覚えるのは、「伴走」は短い、定められたような小さな規模の時間ではできないってことだ。伴走の単位は、多分私と一緒に走る経験のある人以外には伝わりにくいと思うけれど、時間ではなく、まとまった距離の問題なのでは、と思うのだ。小さなサイズで起きる気づきは概ね小さい。それは、リフレクションなどと呼べるものではなく、気づきとか、改善とか、そんな感じのものではないか。

学校とゆるやかに伴走するということ

学校とゆるやかに伴走するということ

  • 作者:石川 晋
  • 発売日: 2019/07/24
  • メディア: 単行本
 

なので僕は自分の1on1対話を伴走と呼んでいない。一時そう呼んだ時期もあったが、もうやめている。もちろん3年にもわたってずうっと1on1対話を続けている方もいらして、その方との関係は「伴走」という言葉が似つかわしいのだろう。が、色々文脈を理解されないのが辛いので、僕が自分の仕事の中で伴走と呼ぶのは、学校・教室にどっぷりと入らせてもらえた時だけにしている。

f:id:suponjinokokoro:20210227091035j:plain

そもそも一般的にも「伴走」というのは、当初は最低でもボランタリズムに貫かれていたものだと思っている。無論、それは僕にとって今は生業であるから、僕にとってももう概ね無償とはいかない。しかし、おおよそ今でもみなさんがびっくりするほどの少額で入っている。

またかつての東京の中学校理科の先生の教室は無償で入っていたし、大阪の池田市や福島南部の学校もそうだった。今でも、茨城の学校や多摩市の小学校には事実上無償で入っている。

 

そもそも1on1対話だって、50分で2500円しかいただいていない。これは恐ろしく少額だと思うが、僕が楽しみつつ学んでいる時間でもあるので、これ以上はいただけない。また、2500円に見合う対話ができているかと、いつも自分を疑っている。1時間30000円をとる教員出身の方や、ついでに石を20万円で売ってしまう人とか、すごいなあと思う(それで双方が納得なのだから、まあとやかくは言えないが、僕にはそういうのは難しい)。

 

僕が言いたいのは、無償で伴走するべきだと言うことではない。

ただ、そもそもそれを生業とすることを目的としているのではないスタートと、そもそもそこで経済をやろうというところからスタートしている場合とは、違うだろうな、ということだ。

 

伴走というのは、とても疲れる。むしろ走っている本人以上に汗をかくものだと思っている。また、そうでないと伴走なんて出来ないとも思っている。え、そんなに疲れるのになぜやるの、ということで言えば、最初の話に戻るが、その根幹にはボランタリズムがあるからだ。

 

ボランタリズムと書いているが、本当はそんなのは当たり前で、さらにその前提に、ホスピタリティでさえない、コンヴィヴィアルがあるということだ。楽しさに貫かれているからできる。いや、楽しさに貫かれていないとできない。ぼくの入る現場の先生は概ねここは相互理解できていると思う。

 

したがって、そもそも、1時間のオンライン対話とか文書でのやりとりとか、そういう感じでやるものは、それを否定しないし、僕もしているし、大事だと思うが、僕が現場に実際に入って行っている「伴走」とは、もう全然違うものだと思う。

 

それは恐ろしく疲れるけれど、恐ろしく楽しいものなのだ。たとえ、金銭的な対価が小さくても、そこにある共愉に勝るものがないので、双方が合意の上で行うものであり、つまりは、伴走は、比喩的には「シャドーワーク」なのである。

石川 晋―エピソードで語る教師力の極意

石川 晋―エピソードで語る教師力の極意

  • 作者:石川 晋
  • 発売日: 2013/04/22
  • メディア: 単行本
 

一旦ここまで。

 

1on1オンライン対話3月からの調整が終了した

ようやく、調整できた。1.5ヶ月で140時間。60名ほどの人数になった。

全員の要望に応えたいと思っている。

メッセンジャーグループ作成に制限がかかってしまい、仕方なく、FBグループを作成する。申し込んだ方には、FBで招待通知がいくはずだが、みなさんご確認いただけるだろうか。

昨春並みのハードな予定を頑張って泳いで行こうと思う。かなづちだけど。

f:id:suponjinokokoro:20210223234536j:plain

 

最近読んだ本から その7

どの本も結構面白い。

ひとりで生きていく

ひとりで生きていく

  • 作者:ヒロシ
  • 発売日: 2019/11/02
  • メディア: 単行本
 
物語の役割 (ちくまプリマー新書)

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

  • 作者:小川 洋子
  • 発売日: 2007/02/01
  • メディア: 新書
 

 

 

トラム、トラム

今日は、ようやく「星の子」を見ることができました。下高井戸シネマ。もう上映は終わる間際。映画館でしか映画を見てこなかったぼくにとっては、ほとんど最後の滑り込みでした。間に合ってよかった。

それは、普通の家族の物語でした。そして、歩く人の話でした。

芦田愛菜はもちろん、俳優陣は素晴らしかった。

ぼくも、歩いています。ずうっと歩いている。

何度かじんわりと泣けました。

トラムに乗り、寒桜も見ました。

f:id:suponjinokokoro:20210218232024j:plain

 

連続講座(2月から3月…水戸、国立、新大阪、横浜、大宮、仙台、甲府、名寄)

足が止まった、と実感しています。

講座に参加する先生の数が減りました。

内容が魅力的でないから・・・それはもちろんですが、でも、そんなことなら以前から変わらずそうですから・・・コロナの緊急事態宣言下で、みんなの足が止まってしまったのだと思います。最後の10 分間に足が止まってしまう、サッカー日本代表みたいな・・・。今年はずうっとDFばかりしていたわけでしょうし。

でも、誰かが、まだボール回しましょう、と言わなければなりません。そう思って、2−3月の連続講座も、今のところ続けようと思っています。さすがに1、2名の参加の場合は直前でキャンセルするつもりですが、完走を目標に走りきろうと思います。

f:id:suponjinokokoro:20210217143826j:plain

2月20日土曜日 水戸連続講座2/2「全国の学校・教室を見ながら考えていること」

3月5日金曜日 国立連続講座12/12「全国の学校・教室を見ながら考えていること」

3月6日土曜日  新大阪連続講座9/11「ゲストと対話する3 吉永かおりさんと」

3月10日水曜日   横浜連続講座5/5「学校とゆるやかに伴走するということ」

3月12日金曜日 大宮連続講座8/8「1on1オンライン対話で考えていること」

3月13日土曜日 仙台連続講座2/2「学校とゆるやかに伴走することの意味」

3月19日金曜日 甲府連続講座「全国の学校・教室を見ながら考えていること」

3月27日土曜日 名寄連続講座2/2「学校とゆるやかに伴走することの意味」

 

1on1オンライン対話という場所から、教わっていること

ぼくが、教育「支援」の一つの方法としての1on1オンライン対話にたどり着いて、確か3年目に入るのだと思う。最初は、ちょんせいこさんのところに学ぶ先生方の何人かの支援をしてくれないかという相談からスタートしたものと思う。

当初は、このあり方が何かの役に立つと確証が持てなかった。また、自分で継続的に希望を取って進め始めてからも、やりながら意味を見出せないと感じることもしばしばあった。なぜこんなことをしているのだろう、と。片手間に聴いていた事さえあることも白状しなければならない。

 

しかし、対話を積み重ねていく中で、これまでには感じたことのない気づき、共振するような気づきがあり、そこから実は自分の方がこの場に教わっているのではないかと思い始めた。それで、ほぼ全ての対話をメモを取りながら聴くようになった。コロナ以後の対話は3月末までに1200時間くらいになるものと思う。そのほとんど全てに、対話している方々はご承知の通り、結構な量のメモを残しているわけだから、これはもう自分でも狂気の仕事だと自覚もしている。

自分が場を作ることで、自分が作る場から、新たにたくさんのことを教わっていく。これはやはり幸せなことだと思う。

そもそも当初は「支援」という言葉を仮置きしていたのだが、これはもう全く支援ではない。実は、当初は、クレセント・ワークスの小山田奈央さんが、1on1のファシリテーションという奇特な(失礼・・・)アプローチをしていることに驚いて、コーチングともカウンセリングとも括れない、ファシリテーションの介在する場を一対一のオンラインで作れないかということを考えて始めた。

しかし、今や、自分の作っている場は、やはり名付けがたい場所で、これはなんなのかと指差しされても答えられない、一人ひとりとの間に、当たり前だが固有にしか存在しない場なのだと、少しだけ胸を張って言えるようにはなってきた。これは、昨今流行の「伴走」でもない何かだと思う。

f:id:suponjinokokoro:20210217134614j:plain

3−4月、新年度に向けて考えを巡らせる季節。学校教育とその周辺を巡り自分が置かれるであろう様々な立場から思いを巡らしたい、とにかく困っているので助けて欲しい、相談に乗って欲しい、吐き出したい、ただただ刺激が欲しい、いろんなことを考えたいetc...と思っている人に、久しぶりに1on1オンライン対話の希望者を広く募集します。

条件は次の通り。希望の方は2月21日夜までにtwitterのDMまたはFBメッセンジャーでご連絡ください。FBメッセンジャーは「友達」でないと、メッセージがスパム扱いになる場合があるので、まず「友達」申請をお願いします。

------------

<3月ー4月の新規申し込みを若干名受け入れます。期限は、2月21日夜までにします>

3月4月の方針が決まりました。

1 3月ー4月は、3/1から4/18までの期間とし、回数は1から4回とします。

2 新規の方は2月21日日曜日の夜までにご連絡ください。

3 引き続き継続の方は19日までにご連絡ください。継続されない方は連絡不要です。

4 確定後、2月26日までにお振込ください(最近少しルーズになってきているので、入金ルール一応厳格に示します 笑)。 一回50分、2500円です。おそらく格安です。

5 4月19日以降については、新年度開始後改めて募集をします。

6 今回は年度末から学年始の時期なので、久しぶりにFBtwitterで一般募集をします。ですから、19日の後追加の申し込みが難しくなることも予想されますので、ご連絡しておきます。

7 継続確認の際には、ご希望の曜日と時間帯も連絡ください。ただ、少し幅を持たせてご連絡いただけると助かります。

8  もし50分×2回(100分)でお申し込みを希望する方がいましたらお引き受けしますのでお知らせください。料金は二回分になります。

 以上です。

ちなみに、苦しい時期になると、相手の方が時間になっても画面の前に現れないことはしばしばあります。そこは、ぼくがNPO授業づくりネットワークの活動の中で大切にしていることと同じマインドで対応しようと決めています。つまり、ぼく(ら)は、最終DFを守る存在でありたいということです。たどり着けない人を、大切にする、何度も何度も呼びかけ続ける、それがぼく(ら)の仕事です。たどり着けなかった時は、別な日程を相談して調整する。それをずうっとやり続けています。

財布をなくす

今日は空港まで来て、財布がないことに気づいた。

suicaに1000円くらいしか入っていない・・・。

f:id:suponjinokokoro:20210215185042j:plain
カバンに通帳を入れていたのだが、ATMというのは、通帳でお金を下ろすことのできない異形の箱であることに改めて気がついた。

何もできない悲惨な1日だった。

まあ、しょうがないね。

財布は出てきた。よかったと思う。

この数日は、人の原稿を一所懸命読んでいる。

自分の原稿は書いていなくて、迷惑をかけている。

 

「余震」の「余」とはどういう意味なのだろう

東日本大震災の余震だという巨大な地震があった。

そもそも「余震」の「余」とはどういう意味なのだろう。「残余」の「余」、あまりという意味なのだろうが、実態とはなんともかけ離れた言葉だ、と思える。

そういえば、最近は「余人をもって替えがたい」も話題になった。この場合の「余」は「ほか」という意味だろうか。

『悲しみとともにどう生きるか』を読んでいる。さらっと読むはずだったのに、これが一向に進めない。最近は、悲しみに捕捉されそうになることが多い。悲しみと一緒に生きる以外の選択肢などないことは知っているのだが、でもどうやって?

 

最近読んだ本から その6

チェリビダッケミュンヘンフィルのブラームス4番を聴きながら。不思議と悲しい気持ちにはならない演奏。美しいなあ、と思う。


Brahms Symphony No.4 Celibidache -Live in Tokyo 1986- ブラームス 交響曲 第4番 チェリビダッケ 東京ライブ

ふゆ

ふゆ

 
Au オードリー・タン 天才IT相7つの顔

Au オードリー・タン 天才IT相7つの顔

 

コインランドリーに、自由にお持ちくださいと書かれて、箱いっぱいのゆずがあった。ジャムを作ろう。

 

 

 

 

 

鉄道のある風景2021(自然の中を駆ける列車たち)展、うし展

「自然」というのは不思議だな、と思う。ほとんどの写真には、列車以外にも様々な人間の手による構造物や手を加えられた大地が映り込んでいるというか、それと列車との重なりの美しさこそが、多くの写真の「美」の中心なのである。「自然」は破壊されているが、「自然」の概念規程は拡張している。

市民が思い思いに持ち寄った牛は、実に多様だ。見え方は、ぼくが思うよりも遥かに多様なのだと思う。隣にいる人と自分と、対象を同じようなものとして見ているのか、そういうことさえ、疑問に思えてくるほど、見え方は一人ひとり違うのだと思う。