鈴木美枝子さんに書いていただきました。
2018年2月27日。
69号。
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メールマガジン「教師教育を考える会」69号
2018年2月27日発行
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短期大学教員奮闘記 自問自答を続けながらの実践!
「地域“いわき”の保育者を育てるということ」
いわき短期大学幼児教育科教授
鈴木 美枝子
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69号は、鈴木美枝子さん(いわき短期大学幼児教育科教授)です。静岡の特別支援学校から、いわきの短期大学へ、幼児教育に関わる学生を育てる教師教育者の道を歩む方です。 (石川 晋)
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自問自答の始まり : いわきの地で「保育者養成に関わる責任」
短大の教員になった最初の頃は、いわきの生活に慣れること、毎日の授業づくりに精一杯で、学生の声も聴くゆとりもなく、ただ、ただ一生懸命に日々の授業の準備をしていました。そんな中、私の心に大きな異変が起こったのは、一年目の10月です。2年生のゼミの学生が、研究室に来て、「先生、富岡町の成人式、郡山でやるんだ。でも、みんないろいろな所に避難しているので、同級生半分くらいしか集まらないみたい…。来年は、富岡町が避難解除になるから、富岡で成人式ができるみたいだけれど…」と、寂しそうに話しかけてきました。その言葉で、初めて、私は学生が震災後、どんな思いで日々生活をしているのか、原発によって避難生活を送っていることについて、それまで深く考えていなかった自分に気づかされ、頭をハンマーで殴られた思いでした。
というのも、いわきに転居する前には、仕事の同僚や友人などに「東日本大震災の影響があるのでは…。原発は大丈夫?」と、心配され声を掛けられていました。しかし、実際、いわきに転居したときには、生活する場所も、職場も、建物は建て替えられ、道路も整備されており、震災の影響は全く感じられませんでした。だから、震災についても、原発についても自分の中には、それほど大きな意識はなく、どちらかというと、過去のことという意識が強かったように思います。
学生の言葉をきっかけに、「“いわき”いう地域を知ること、
原発の影響を知ること、そして、改めて東日本大震災について知ること」に心掛け、あちこちフィールドを歩きました。昨年(2017年)2月に、南相馬で開かれたOMEP(世界幼児教育・保育機構)主催の「OMEP保育フォーラムin福島(一泊2日)」に参加し、南相馬にある保育所等の保育者や震災以来ずっと原発の影響の調査をされている研究者の方々のお話を伺いました。2日目には、南相馬市内のフィールド・ツアに参加し、現地に人たちの話に耳を傾けました。私は、2日間、いわきから国道6号線を使って、南相馬の会場へ車を走らせました。津波の後、片づけられた更地に、放射能で汚染された土をいれたフレキシブルコンテナバックが、黒いピラミッドのように高くあちこちに積まれている様子を見て、胸が締め付けられました。「広野町」、「富岡町」などの町の案内板を目にすると学生の顔、学生が語る言葉が走馬灯のように脳裏に浮かび涙が溢れてきました。帰還困難区域では、各家々の入り口にはバリケードが組まれ、当時の生活そのままが残されていました。6年という時間の流れで多くのものが廃墟化している様子を目の当たりにし、言葉を失いました。さらに、沈んだ気持ちに追い打ちをかけたことがあります。それは、このOMEP主催のフォーラムで出会った保育者の方々、フィールド・ツアで出会った方々から、私が勤務しているいわき短期大学の卒業生であることを伝えられました。そして、参加者の多くは、震災発生から、復興支援に携わっていることを知りました。私は、今頃、このいわきに来て、一体何ができるのだろうか。何も知らないこの地域で仕事をするということの意味はなんだろうか、保育者養成に関わる教員として何ができるのだろうか。震災後、まだ、原発の影響が強く残る中、地域の子どもの育成に携わっている保育所(園)、幼稚園等の保育者の方々が、子どもたちのために一生懸命に保育をしている姿を、また、「今、生きている」ということに感謝の気持ちを言葉にしながら、一生懸命にその地域で生活している人たちを目の当たりにして、「生きるということ」、「保育者養成に携わるということ」について、大きな責任感と大丈夫だろうかという不安な気持ちでいっぱいになりました。その日から、自問自答する日々が始まりました。
<学生に教えられて>「体感する授業、地域で学ぶ授業」を考える
生まれて初めての短大の授業。一コマ一コマ、何を、どのように教えたら、学生が理解できるのか、また、理解が深まるのか。ただ、それだけを考えて試行錯誤しながら準備をしました。本当に些細なことですが、授業で配布するプリントも、A4に印刷したり、A3に印刷したり、縦にしたり、横にしたりと、授業内容と照らし合わせて、どの形が一番見やすいのか、毎回考えて作成しました。しかし、学生から、「先生、毎回、用紙の大きさが違ったり、印刷の向きが縦になったり、横になったりすると、ファイルするときに苦労する…」と、言われて初めて自分の都合でやっていたことに気づくということがあちこちで見られました。
更に失敗は続きました。私は「障害児保育」(通年科目)を担当しています。様々な障害について話をしてもイメージが持てないだろうと思い、毎時間、その時間の授業内容に関連するDVDを使用しました。しばらく経った頃、ある学生が授業のリアクションペーパーに、「毎週、学習する障害のDVDを見せてくれるのは分かりやすいです。でも、だんだんと、見たDVDと障害名がごちゃごちゃになってきて、分からなくなってきました。だから、DVDを減らしてもらえませんか」と、書いてきました。正直、この言葉には、ショックでした。少しでも、障害について理解してもらおうと、DVDを何本も視聴したり、適切なものがない時には、購入したりして、かなりの時間と経費を費やして、授業の準備をしてきたからです。考えてみれば、自分自身は、専門でもあるので、それぞれの障害については、ある程度理解をしています。でも、学生にとっては、初めての知識だったりします。改めて、視聴覚教材のメリットとデメリットを考えた出来事でした。そして、DVDは万能ではないことも身に染みて感じました(初歩的なことですが)。
このように様々な失敗を経験した一年目があったおかげで、二年目には、その失敗を基に、新たな授業づくりに挑戦をすることができました。紙面の関係があるのでその一部を紹介したいと思います。
(1)「体験する授業」の試み
1障害児保育:「援助すること」について考える
障害児保育の最初の授業で、「援助する」ということについて考える授業を行いました。最初に、視覚障害のある人を想定して、言葉掛けや身体接触で誘導するという授業を行いました。二人一組になり、一人は、アイマスクと白杖を持ち、視覚障害のある人の役割をし、もう一人は、言葉を掛けたりや手を添えたりして誘導をする人の役割をしました。この体験をした授業後の学生のレポートには、「普段、気にしていない段差が、大きく感じて不安になった。手を添えてくれたことで不安は少なくなった。そして、『ちょっと、段差があるから、気を付けて』と言葉を掛けてくれたけど、『ちょっと』がどのくらいかわからなかった。もっと、具体的に『○cmくらいの段差がある』というように言ってくれたら、不安にならずに済んだように思う。視覚障害のある人を援助するときには、相手が想像できるように具体的な言葉掛けや、手を持って誘導するときには、歩く速さなどを聴いて、相手の不安な気持ちに寄り添うことが大事であることが分かった…」などの感想が書かれていました。また、誘導する役割をした学生は、「言葉で、相手にわかるように、段差や障害物があることを伝えることが難しかった。アイマスクをした友達が、腰が引けて歩けない状況になったときに、どのように励ましていいのか、分からなかった」など感想が書かれていました。学生の授業後の感想レポートから、「援助すること」について、両方の立場から考えるきっかけができたように思います。
2障害児保育:障害のある子どものための“おもちゃ作り”と
その実践
知的障害、自閉症などの各論の授業が終わったあと、障害のある子ども(利用者)のためのおもちゃや絵本などを作成することを行いました。学生には、「障害は診断名で捉えるのではなく、“ボタンはめが難しい子”、“目と手の協応動作が難しい子”など具体的にイメージして作ること」を伝えました。そして、作成したおもちゃや絵本をどのように使いたいか、簡単な指導案を作成しました。作成したものを使って、保育実習あるいは教育実習(幼稚園実習)で、実際に使って子どもたちの反応をレポートするという課題を出しました。実習後の授業では、各自が作成したおもちゃまたは絵本、指導案を持ち寄り、グループ内で1ねらい、2制作をするにあたって工夫や配慮をしたところ、3子どもの反応等について共有をしました。その後、各グループで共有したことを整理し、作成した保育材の写真を入れて、プレゼンテーションを行い全員で共有し、意見交換をしました。制作したおもちゃや絵本は、図書館にコーナーを設けていただき、校内の学生及び教職員及び地域の人たちにも見ていただくことができるように展示を行い、学校のHPのブログを通じて宣伝もしました。この授業を通して、「保育材(おもちゃや絵本)」を作成することの意味、「保育材(おもちゃや絵本)」を使っての子どもたちと関わる喜びなどを学習したように思います。
(2)「地域を知る授業」の試み
本学は、いわき市にある唯一の保育者養成校です。そのため、本学に進学してくる学生の8割から9割がいわき市出身で、卒業後、8割強の学生が、いわき市内に保育者として就職をします。現在でも、いわき市内の保育者(保育所、幼稚園、認定こども園など)の8割が本学出身者です。従って、いわき市の乳幼児教育は本学出身者が担っているといっても過言ではありません。
教員になって一年、地元出身の学生が多いのにいわき市の行政に関心を持ってる学生が少ないことに、危機感を感じました。そこで、本年度、2年生の特別講義の担当になったので、いわき市のこどもみらい部に依頼をして、「いわき市の行政と子育て支援」について企画しました。当日は、こどもみらい部から6人もの職員が来校をしてくださり、それぞれの担当部署の担当者が、学生にわかるように資料として提示してくださいました。いわき市の人口の推移や年齢層、保育所、幼稚園などの入園率や年齢構成、そして、昨年7月から始まった「ネウボラ」という全国でも珍しい、いわき市独自の子育て支援の取り組み。学生からの要望で、企業内保育所、小規模保育所の具体的な現状、いわき市の保育者として働くということなどのお話をいただきました。終了後の学生の感想には、「特別講義のタイトルを見たときには、難しいと思いました。実際にお話を聞いて、地域の中で幼児教育を担う保育者になるということ、地域行政に関心を持つことは、子ども一人ひとりの援助につながることが分かりました。配布された資料は、自分の進路選択に役立つもので、うれしかった。」などの記述が多くみられました。また、講義をしてくださったこどもみらい部の職員の方々からは「養成校といわき市の行政が両輪となって、これからのいわき市の幼児教育を考えていきましょう。」という、温かな言葉をいただきました。学生も、今回の講義を通して、生活し仕事をするいわき市という地域に視野を広げるきっかけになったように思います。
2保育・教職実践演習:「こどもの命を守る」~東日本大震災
時の保育~
今回、保育所保育指針、幼稚園教育要領等の改訂がありました。昨年、3月に告示された内容を見ると、東日本大震災を受けて「こどもの健康・安全」が大きく取り上げられました。いわき市も、大きな被害を受けています。そうした被害よりも、原発の影響を受けた地域の人々「避難地区」という印象を強くもっていました。震災時、保育所や幼稚園はどのような状況であったのかについては、津波や原発で大きな被害をうけた、宮城県や南相馬地区の情報は入手することができましたが、いわき市内の情報については、情報を得ることができませんでした。
そこで、いわき市のこどもみらい部に授業の趣旨をお話し、当時の保育について語っていただける市内の保育士3名を紹介していただきました。授業は、シンポジウムという形をとり、その3名の保育士(公立保育所の所長)の方々から、保育の現場で、津波を体験した事例、原発の影響によって、保育環境を失った事例、保育環境を失ったことで、こどもの体力に焦点を当てた新しい保育を試みた事例について、お話を伺いました。
授業を受ける学生自身も、震災の当事者(当時中学校1年生)であることから、話を聞くことで、当時を思い出して気分が悪くなったり、気持ちが不安になったりすることも考え、保健センターの先生とすぐ連絡が取れる体制、学生が休憩できる控室等を準備して臨みました。
結果、学生は真剣な眼差しで話を聞き、お話の後の学生からの質問は300を超えるものがありました。講師をしてくださった先生方は、その関心の高さに驚き、一つ一つに丁寧に答えてくださいました。同時に、震災のときの保育について、これまで話す機会もなく、時間とともに風化してしまうのではないかと、危機感を感じていたので、今回の機会は、貴重な機会であると思うし、大変うれしかった、と評価してくさいました。学生自身からは、これまでは、震災で支援をしてもらっていたが、今度は、いわきの子どもたちの健康や安全について、援助する立場になることを自覚したという意見が多く聞かれました。
(3)「地域で学ぶ授業」の試み
1障害児保育:肢体不自由支援学校の授業参観
最近、全国的な傾向として、保育士資格を取得して、施設保育士になる学生が増えてきています。施設保育士として、児童養護施設、障害児施設等に勤務する学生もいますが、障害者施設を選択する学生もいます。本校は、保育士と幼稚園教諭の資格・免許が取得でいます。学生の進路を考えると、障害のある人が小学校から高校の間、どのような教育を受けているのかということを知っておくことが大切であると思いました。そこで、地域の肢体不自由支援学校の授業参観を障害児保育の授業の中で行いました。※福島県は、「特別支援学校」ではなく、「支援学校」としている。
多くの学生が、初めて肢体不自由支援学校の授業を参観したようで、様々な驚きがあり、たくさんの学びをしたようです。その一つに、「肢体不自由のある人=車いすの利用」というイメージを強く持っていたようで、歩いている子どもをみて、びっくりした学生が少なくありませんでした。運動場や校舎内の工夫、また、車いすの種類の多さにびっくりしたり、医療的ケアの子どもたちの学習から、大学進学を目指す子どもたちの学習の様子を見学したりすることで、子ども一人ひとりのニーズのあった取り組み(学習)していることからをたくさんのことを学んだようです。男子学生の中には、「僕は、これまで保育者を目指してきたけれど、今日、肢体不自由支援学校を見学して、障害のある子どもたちが使う車いすを作る技師になりたいと思った。車いすを使う子どもが一番使いやすいもの、愛着の持てる車いす、そういうものを作ってあげたいと思った…」という感想を述べている学生もいました。授業後の学生のレポートを読んで、保育士や幼稚園教諭は主として乳幼児期の子どもと関わるための専門職ですが、保育する子ども一人ひとりの生涯を見据えて、今を考える視点を持つことができる保育者養成でありたいと改めて思いました。
2保育・教職実践演習:「保幼小の連携について学ぶ」~小学
校の授業参観~
今回の改訂を受けて、「幼児教育と小学校との接続」が、大きく取り上げられました。その中で、幼児教育と小学校の円滑な接続を図るために「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」いうものが明示されました。4月から保育者として仕事をする学生の一人ひとりが、今回の改訂に記載されている「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」をイメージすることができるのだろうか…という発想から、実際の小学校の授業参観に踏み切りました。事前学習として、私が、小学校の学習指導要領について、授業で学生に説明をしました。その後、各グループに分かれて、幼稚園教育要領に示されている5領域と小学校学習指導要領に示されている1,2年生の各教科の目標との関係をマトリックスにする作業を行いました。そして、完成したマトリックスをみて、各教科の目標と5領域の関係について各グループで検討をしました。
授業参観は、「ふくしま教育の日」を利用して行いました。この「ふくしま教育の日」とは、福島県では、ふくしま教育の日条例が制定されており、県民の教育に対する理解を深め、県の学校教育、社会教育及び文化を充実させ、並びに発展させることを期する日として設けています。それが、毎年、11月1日が、その日に定められており、7日までがふくしま教育の日週間になっています。その期間は、小学校も全学年の授業公開が行われ、保護者や地域の方々が自由に参観できることになっています。保育・教職実践演習を受講している学生75名を3グループに分け、学校から歩いていくことができる3つの小学校に参観の依頼をして、授業参観をさせていただきました。授業参観後は、参観してきたことを、各グループの仲間と共有してグループとしての学びをまとめました。まとめたことについて、グループごとにプレゼンテーションを行い、発表後に質疑応答の時間を設け、学びを共有しました。
学生の感想には、「保育所実習、幼稚園実習で年長児を見てきたけれど、小学校一年生の子どもの姿は、想像以上でした。」という内容が多くみられました。そして、「就学までに育てたい力」として、「小学校に入るには、きちんと座ることができるようにしたい。」、「鉛筆がきちんと持てるようにしたい。」ということが述べられていました。これでは、年長児の保育が、小学校に入るための予備校のようになってしまうのでは…と危機感を感じました。
そこで、この学生の意見や感想を、その後の授業「保育所の学級経営」、「幼稚園の学級経営」につなげることにしました。この二つの講義は、現職の保育士や幼稚園教諭の先生方に依頼しています。各講義の事前打ち合わせの際に、小学校見学後の学生の取り組み状況やプレゼンテーションの内容について伝え、現在の学生の学びを把握したうえで、「保育所や幼稚園での学級経営」について講義をしていただきました。講義の後の学生の感想には、「幼児期に育てることは、授業の時間に座っていることができる子どもを育てるのではなく、様々なことに興味を持って、気づいたり、考えたりできる子どもを育てることが大事だと思った。」など、小学校見学での自分の学びについて省察する内容がみられたことは、嬉しいことでした。
3保育・教職実践演習:「障害のある人の育ち」~金澤翔子氏
から学ぶ~
保育・教職実践演習の最後の授業では、「障害のある人の育ち」について、ダウン症の書家の金澤翔子氏から学ぶ授業を行いました。いわき市は、早い時期から統合保育に取り組んだ地域です。いわき市内の保育所(園)、幼稚園は、積極的に気になる子、あるいは障害のある子を受け入れています。本学を卒業し、保育者として就職したときに、必ず気になる子、障害のある子と出会うことになります。そのときに、障害のある子(あるいは気になる子)の幼児期だけではなく、人として育ちに関心をもち、出会った子どもの今を考えることができるようになって欲しいと願ったからです。
金澤翔子氏から学ぶことを考えたのは、東日本大震災の復興を目的に、いわき市に金澤翔子美術館が設立されていることからです。事前に、美術館に打ち合わせに行き、授業の目的を話し、美術館の職員の方の協力を得て、講義と見学という2本の柱で行うことになりました。
当日は、最初の一時間、金澤翔子氏の出生から小学校低学年までの生い立ちについて、DVDを含めお話をしていただきました。DVDは、金澤翔子氏のお母様が、授業の目的を理解していただき、学生のために提供してくださいました。年代ごとに、学生にわかりやすくエピソードを交えてお話をしてくださいました。その中で、多くの学生の印象に残ったエピソードは、「お母さんが、翔子さんに書を教えていたときに、右上がりに筆を運ぶことが、どう説明をしてもできなかった。悩んだお母さんが、翔子さんの手を引いて、何度も、何度も坂を一緒に上って、これが“あがる”ということですよ」と感覚をつかませたというお話でした。講義の後、翔子氏の書の一つひとつについて、説明を受けました。
見学後のレポートでは、「人の幸せは、障害の有無で決まるものではない。障害に目を向けるのではなく、その子らしさを大切に保育していきたいと思った。」という内容や翔子氏のお母様の姿勢や思いについて語られた内容が多くみられました。
いわきに来て、1年と10か月。全く初めての地域で、初めての短大の教員として、保育者養成に関わり、試行錯誤で行ってきた授業実践の一部を紹介させていただきました。この原稿を執筆する機会をいただき、短大の教員として歩き出した2年弱の短い期間ですが、初めて、足を止めて自分の歩みを振り返ることができました。何よりも出会った学生、同僚、地域の人たちに支えられて今があることに、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございます。4月から3年目に入ります。一つひとつの実践が、学生の力になるようさらに、努力をしていきたいと思います。拙い授業実践で恥ずかしい限りですが、お読みいただいた先生方、3年目に向けての御指導よろしくお願いいたします。
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鈴木さん、ありがとうございました。静岡からいわきへ。私も2017年4月に公立学校の職を辞して、単身東京へ出てきましたので、そもそもの教育的土壌の違いなど、折々に感じることが多くありました。ただ、日々の中で最初の戸惑いや気づきを記録することもなく、流してしまっています。こうして鈴木さんのストーリーを読ませていただきながら、自分の感情も含めたストーリーを書き残しておかなければという気持ちになります。
それにしても圧倒的に精力的なお仕事の数々、ちょっと言葉を失うほどでした。教師教育の道を歩み始めた方の歩みの記録がこのように残せて、私もとてもうれしいです。
私も長く北海道の「地域」で教員をしてきました。疲弊しつつある町にあって、子どもはまさに希望です。震災の地いわきで鈴木さんが支援していく保育者たちは、まさに希望を育てていく人たちとして育っていくのだな、地域と真摯に向き合う姿に胸があつくなる論考でした。
前号、金さんの記事中に以下の誤りがありました。
読者の方から指摘がありました。ありがとうございます。
(誤)教員(指導専任)
→
(正)教諭(指導専任)
次回、3月2日金。平井良信さん(有限会社カヤ プレイフ
ルプロデューサー)。京都の明日の教室の記録をDVDとして制作する、あの人、です。