最近読んだ本から その7

どの本も結構面白い。

ひとりで生きていく

ひとりで生きていく

  • 作者:ヒロシ
  • 発売日: 2019/11/02
  • メディア: 単行本
 
物語の役割 (ちくまプリマー新書)

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

  • 作者:小川 洋子
  • 発売日: 2007/02/01
  • メディア: 新書
 

 

 

トラム、トラム

今日は、ようやく「星の子」を見ることができました。下高井戸シネマ。もう上映は終わる間際。映画館でしか映画を見てこなかったぼくにとっては、ほとんど最後の滑り込みでした。間に合ってよかった。

それは、普通の家族の物語でした。そして、歩く人の話でした。

芦田愛菜はもちろん、俳優陣は素晴らしかった。

ぼくも、歩いています。ずうっと歩いている。

何度かじんわりと泣けました。

トラムに乗り、寒桜も見ました。

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連続講座(2月から3月…水戸、国立、新大阪、横浜、大宮、仙台、甲府、名寄)

足が止まった、と実感しています。

講座に参加する先生の数が減りました。

内容が魅力的でないから・・・それはもちろんですが、でも、そんなことなら以前から変わらずそうですから・・・コロナの緊急事態宣言下で、みんなの足が止まってしまったのだと思います。最後の10 分間に足が止まってしまう、サッカー日本代表みたいな・・・。今年はずうっとDFばかりしていたわけでしょうし。

でも、誰かが、まだボール回しましょう、と言わなければなりません。そう思って、2−3月の連続講座も、今のところ続けようと思っています。さすがに1、2名の参加の場合は直前でキャンセルするつもりですが、完走を目標に走りきろうと思います。

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2月20日土曜日 水戸連続講座2/2「全国の学校・教室を見ながら考えていること」

3月5日金曜日 国立連続講座12/12「全国の学校・教室を見ながら考えていること」

3月6日土曜日  新大阪連続講座9/11「ゲストと対話する3 吉永かおりさんと」

3月10日水曜日   横浜連続講座5/5「学校とゆるやかに伴走するということ」

3月12日金曜日 大宮連続講座8/8「1on1オンライン対話で考えていること」

3月13日土曜日 仙台連続講座2/2「学校とゆるやかに伴走することの意味」

3月19日金曜日 甲府連続講座「全国の学校・教室を見ながら考えていること」

3月27日土曜日 名寄連続講座2/2「学校とゆるやかに伴走することの意味」

 

1on1オンライン対話という場所から、教わっていること

ぼくが、教育「支援」の一つの方法としての1on1オンライン対話にたどり着いて、確か3年目に入るのだと思う。最初は、ちょんせいこさんのところに学ぶ先生方の何人かの支援をしてくれないかという相談からスタートしたものと思う。

当初は、このあり方が何かの役に立つと確証が持てなかった。また、自分で継続的に希望を取って進め始めてからも、やりながら意味を見出せないと感じることもしばしばあった。なぜこんなことをしているのだろう、と。片手間に聴いていた事さえあることも白状しなければならない。

 

しかし、対話を積み重ねていく中で、これまでには感じたことのない気づき、共振するような気づきがあり、そこから実は自分の方がこの場に教わっているのではないかと思い始めた。それで、ほぼ全ての対話をメモを取りながら聴くようになった。コロナ以後の対話は3月末までに1200時間くらいになるものと思う。そのほとんど全てに、対話している方々はご承知の通り、結構な量のメモを残しているわけだから、これはもう自分でも狂気の仕事だと自覚もしている。

自分が場を作ることで、自分が作る場から、新たにたくさんのことを教わっていく。これはやはり幸せなことだと思う。

そもそも当初は「支援」という言葉を仮置きしていたのだが、これはもう全く支援ではない。実は、当初は、クレセント・ワークスの小山田奈央さんが、1on1のファシリテーションという奇特な(失礼・・・)アプローチをしていることに驚いて、コーチングともカウンセリングとも括れない、ファシリテーションの介在する場を一対一のオンラインで作れないかということを考えて始めた。

しかし、今や、自分の作っている場は、やはり名付けがたい場所で、これはなんなのかと指差しされても答えられない、一人ひとりとの間に、当たり前だが固有にしか存在しない場なのだと、少しだけ胸を張って言えるようにはなってきた。これは、昨今流行の「伴走」でもない何かだと思う。

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3−4月、新年度に向けて考えを巡らせる季節。学校教育とその周辺を巡り自分が置かれるであろう様々な立場から思いを巡らしたい、とにかく困っているので助けて欲しい、相談に乗って欲しい、吐き出したい、ただただ刺激が欲しい、いろんなことを考えたいetc...と思っている人に、久しぶりに1on1オンライン対話の希望者を広く募集します。

条件は次の通り。希望の方は2月21日夜までにtwitterのDMまたはFBメッセンジャーでご連絡ください。FBメッセンジャーは「友達」でないと、メッセージがスパム扱いになる場合があるので、まず「友達」申請をお願いします。

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<3月ー4月の新規申し込みを若干名受け入れます。期限は、2月21日夜までにします>

3月4月の方針が決まりました。

1 3月ー4月は、3/1から4/18までの期間とし、回数は1から4回とします。

2 新規の方は2月21日日曜日の夜までにご連絡ください。

3 引き続き継続の方は19日までにご連絡ください。継続されない方は連絡不要です。

4 確定後、2月26日までにお振込ください(最近少しルーズになってきているので、入金ルール一応厳格に示します 笑)。 一回50分、2500円です。おそらく格安です。

5 4月19日以降については、新年度開始後改めて募集をします。

6 今回は年度末から学年始の時期なので、久しぶりにFBtwitterで一般募集をします。ですから、19日の後追加の申し込みが難しくなることも予想されますので、ご連絡しておきます。

7 継続確認の際には、ご希望の曜日と時間帯も連絡ください。ただ、少し幅を持たせてご連絡いただけると助かります。

8  もし50分×2回(100分)でお申し込みを希望する方がいましたらお引き受けしますのでお知らせください。料金は二回分になります。

 以上です。

ちなみに、苦しい時期になると、相手の方が時間になっても画面の前に現れないことはしばしばあります。そこは、ぼくがNPO授業づくりネットワークの活動の中で大切にしていることと同じマインドで対応しようと決めています。つまり、ぼく(ら)は、最終DFを守る存在でありたいということです。たどり着けない人を、大切にする、何度も何度も呼びかけ続ける、それがぼく(ら)の仕事です。たどり着けなかった時は、別な日程を相談して調整する。それをずうっとやり続けています。

財布をなくす

今日は空港まで来て、財布がないことに気づいた。

suicaに1000円くらいしか入っていない・・・。

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カバンに通帳を入れていたのだが、ATMというのは、通帳でお金を下ろすことのできない異形の箱であることに改めて気がついた。

何もできない悲惨な1日だった。

まあ、しょうがないね。

財布は出てきた。よかったと思う。

この数日は、人の原稿を一所懸命読んでいる。

自分の原稿は書いていなくて、迷惑をかけている。

 

「余震」の「余」とはどういう意味なのだろう

東日本大震災の余震だという巨大な地震があった。

そもそも「余震」の「余」とはどういう意味なのだろう。「残余」の「余」、あまりという意味なのだろうが、実態とはなんともかけ離れた言葉だ、と思える。

そういえば、最近は「余人をもって替えがたい」も話題になった。この場合の「余」は「ほか」という意味だろうか。

『悲しみとともにどう生きるか』を読んでいる。さらっと読むはずだったのに、これが一向に進めない。最近は、悲しみに捕捉されそうになることが多い。悲しみと一緒に生きる以外の選択肢などないことは知っているのだが、でもどうやって?

 

最近読んだ本から その6

チェリビダッケミュンヘンフィルのブラームス4番を聴きながら。不思議と悲しい気持ちにはならない演奏。美しいなあ、と思う。


Brahms Symphony No.4 Celibidache -Live in Tokyo 1986- ブラームス 交響曲 第4番 チェリビダッケ 東京ライブ

ふゆ

ふゆ

 
Au オードリー・タン 天才IT相7つの顔

Au オードリー・タン 天才IT相7つの顔

 

コインランドリーに、自由にお持ちくださいと書かれて、箱いっぱいのゆずがあった。ジャムを作ろう。

 

 

 

 

 

鉄道のある風景2021(自然の中を駆ける列車たち)展、うし展

「自然」というのは不思議だな、と思う。ほとんどの写真には、列車以外にも様々な人間の手による構造物や手を加えられた大地が映り込んでいるというか、それと列車との重なりの美しさこそが、多くの写真の「美」の中心なのである。「自然」は破壊されているが、「自然」の概念規程は拡張している。

市民が思い思いに持ち寄った牛は、実に多様だ。見え方は、ぼくが思うよりも遥かに多様なのだと思う。隣にいる人と自分と、対象を同じようなものとして見ているのか、そういうことさえ、疑問に思えてくるほど、見え方は一人ひとり違うのだと思う。

 

 

「伴走者」という言葉の賞味期限切れ(メモ)

つまり自分の仕事を説明するために仮置きしてきた「伴走者」という言葉をそろそろ横に置いて、よりクリアな呼称を考えようということ。昨夜もそのことで大切な人と話し込む。差別化のためと捉えられるとつらい。そういうことではなくて、ぼくの仕事は多分流行している「伴走者」とは違っているから。

 

関係性に名前を付けたくないと常々話している。自分の仕事についても、名前は必要なのか、と問われた。それで考えたことは、しかし、自分の仕事を明確に説明する言葉を見つけられないというのはなかなかきつい、ということだ。ぼくはぼくの仕事はぼくが発明したものだと思っている。多分、発明物にふさわしい呼称もまた発明されるしかない。

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最近読んだ本から その5

緊急事態宣言が延長になり、ぼくにはたくさん本を読む時間ができた。読書にはリハビリが必要だ。それは、ピアノレッスンのようでもある。ぼくのレッスンは、割りかし順調だ。

「探究」する学びをつくる

「探究」する学びをつくる