1月下旬をトボトボ歩く

1月21日。武蔵村山の小学校。ホワイトボードが自然に学校の真ん中にある。以前から見たいと思っていた教室は、素晴らしかった。それは美しく整っているということではなく、人がかかわりあいながら暮らしていくという場所が教室であるという当たり前のこと、ちゃんと当たり前に思い出させてくれる教室だ、ということ。夜行バスで最寄駅から大阪へ。

1月22日。八幡市立美濃山小学校。研修会直前の三つの事前授業を見る。各ブロックの先生方が演劇的手法というツールにも習熟しつつあることが議論の端々から見えてくる。取ってつけたように何かの手法に学校ぐるみで取り組んでも、こうはならないのだ。スタンダードでも、無言清掃でも、朝の十分間読書でも、この際なんでもいい。要するに全ての要素の関わりの真ん中で腑に落ちる時に、本物になっていくんだと思う。今日でぼくは53歳。

1月23日。松原市の小学校。ここは壮絶な場所。そしてその真ん中で若手もベテランも本気で授業改善を目指す場所。覚悟に震える。授業公開の先生。丁寧さと信念と。1年生の授業、凄かった。

1月24日。名古屋の小学校。今年二度目。若い先生が時間を忘れて喰らい付いてくる。聞きたいこと山ほどあるよね。そういう場を作ってくれる先輩が学校にいることへの感謝も忘れないで欲しいと思う。夜は名古屋の連続講座。地道にやり続けることで、少しずつ人が集まってくるようになるんだ。

1月25日、26日は授業づくりネットワーク名古屋、東京。こぼれ落ちるたくさんの人を見ないで済む規模。でも教育運動はこの規模だけと向き合っていくわけにもいかない。それはわかってるんだ。今は少し考える時間が欲しい、そういうこと。

1月27日。福島南部の小学校。今年度定点観測で入ってきた学校。若い女性の先生の教室。そこにずうっといる人は、子どもたちの成長も自分の成長も実感しにくいだろうと思うけれど、まさに長足の進歩だ、と思う。グングン伸びていく姿に心が揺さぶられる。教室でのエピソードもそうなのだが、帰り掛けに見た書写が、鏡のように自分の浅はかさを写し出すようだった。当たり前の方法で当たり前に掲示されている書写に、ぼくらが学ぶことは尽きない。教室や廊下の書写掲示が時代遅れだなどという、単純な主張に回収されたくないと、はっきり思う。学び多い学校。年5回。心からの感謝。

1月28日。本当に久しぶりに何もない1日。と言っても仕事はたくさんあるのだが、気力も体力もこの日にため込まなければならない1日だった。深夜、最寄駅からの夜行バスで関西へ。このバスには、本当に助けられる。

1月29日。朝から樟葉のモスバーガーで、次年度の手帳に予定を書き入れていく。もう終わってしまっているかも知れない、本当は決着がついてしまっているかも知れない、そういう「日常」を少しでも前に進めるのが、ぼくの仕事。午後、八幡市立美濃山小学校。藤原由香里さんの学校。素敵な公開研究会。そう。公開研究会は、自主公開がよい。縛られることから出来るだけ遠くへ。ギリギリの境目までは行こうと思えば誰もが行ける。ぼくもそのギリギリの境目から向こうの呼び声には、まだしばらく応えないで歩きたい。支援学級の授業、圧巻だった。「ごん」の悲劇的な最期の場面を知った時に、あの子達はどうなるんだろうか。今から胸が詰まる。物語の力とは、すごいものだ。

1月30日。小金井の小学校。今回は、3本の飛び込み授業。2本の授業観察。そして異例の70分の「講演」がオーダー。「学校」という場所の圧倒的な現実とどう折り合って、校内研修を作るか。そういうことをずうっと考えている。東京に出て来て、交通インフラの老朽化に驚いた。保線の努力に最大限の敬意を払おうと思えた。学校研修も現実的には、新交通システムへの刷新は困難だ。少しでも線路のつなぎ目が緩やかになるようにする。それがぼくの仕事なのか。教科の枠組み、系統主義、網羅主義、そういうものをふり飛ばすことはできまい。では、その一番ギリギリの境目はどのあたりか、そしてそこまで追い詰められることを選んで仕事し続けられるか。

1月31日。多摩の小学校。ここも通年での伴走。通級の学習を今日は二本。中心的に進めるそれぞれの先生の特徴がよく見える授業構成。ぼくはこういう手作りの肌触りとその人の姿が垣間見える授業が好きなんだなと思う。というか、授業というのはそういうもんじゃないのか、と思う。それにしても・・・人と関わるということは、どのように見えようとも、「おずおず」と「しか」進まないものなのだと思う。話すこと聞くことのあの美しすぎる「かかわりあい」とやら、あれは一体なんなのだ。ぼくらの国は一体なんという授業もどきをしでかしてしまっているのか。今日の2年生5人のおずおずとじりじりを見ながら、天を仰ぐ。夜は甲府の連続講座。今回は教室づくりと学級づくりの現在地を考える。8名もの参加者。ここまで来てよかったといつも思う。数年来の友人中島さんの尽力だ。帰りがけ、二人でペリパトスする時間が、また、圧倒的だ。ぼくが苦しい1on1に賭けるのは、その苦しみと愉悦を知っているからだ。対話は、お手軽なもんなんかじゃない。本来対話の場においては、どのように楽しく感じられようとも、血が流れ出ている。深夜は読書会。本があぶり出す一人ひとりの立つ場所、特性。

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