学校公開に合わせて、朝比奈さんの教室に行ってきました。社会科。九州地方。課題の吟味、提示、カンファランスなどをメインに、見せていただきました。
授業っておもしろい。
やりなおせること(リ・スタートできること)で、圧倒的に身軽になるし、おもしろくなるんだと、改めておもいました。子どもたちに、もう一回やらせて! と言える先生、子どもたちに、この授業どうすればいい? と訊ける先生は、ステキです。
大阪市立豊里南小学校へ行く 2018.10.15
吉永さんの学校へ。
9月開催予定の公開研修会が台風で中止になり、その代替開催。
二人で、「対話型鑑賞」(対話型ギャラリートーク)の授業をしようということで、設定していたが、結果的に準備から実施まで長く時間が空くことになってしまいました。研修会ラッシュの時期にも関わらず外部からも数名の参加者があり、ありがたかったです。
吉永さんの図画工作の対話型鑑賞。子どもたちからの発言もたくさんあり、多様な視点が場に持ち寄られました。後半の作品鑑賞に前半の鑑賞での経験が十分に持ち寄られているか、鑑賞の視点が子どもたちに持ち帰られたかは、この一時間だけで判断はできないところもありますが、よい授業でした。
一方、吉永さんの隣の教室をお借りして行ったぼくの詩の対話型ギャラリートークは、授業としては思うようにいかない流れになりました。まず基本的な問題として、音読を飛ばしてしまうという初歩的なミス、ジグソーの仕掛けも飛ばしてしまうというあるまじきミス、二つのミスを重ねました。ただ、その二つが機能すれば、授業はうまく流れたかというと、それも疑わしいなあと、振り返ります。
事後、吉永さんの前半部分、ぼくの後半部分を、再現授業し、グループ討議していただきました。グループ討議や事後の感想の中に、ありがたい気づきがいろいろ・・・。
①指名をどうするかということについていえば、ぼくが現場で行ってきた時と、この場とでは、挙手→指名という風土の中での授業という決定的な違いがあります。ぼくは教室でほぼ挙手をさせず、また子どもが発言したい場合以外発言も求めない教師でした。ここは大きく違うなあと思います。
②9月実施の予定がずれてしまったので、実は、この作品を担任と子どもたちは読み取り終えていました。ぼくは、読み取り終えているので、意見が出やすいと思っていたのですが、参観者の指摘の通り、読み取り終えているが故に新たな気づきは出にくく、発言しにくいだろうというのは、そうだな、と思いました。
③一方で、今回はこれまで教室で行ってきたものとは大きく変えていました。それは、先に練習単元を入れたことです。その時間で、詩の技法をいくつか子どもたちに教えていきます。それを使って後半の読み取りをしてもらおうという意図です。技法については、これまであまり丁寧に学ばれてきた形跡がないので、「新たな視点」として活用してくれるのではと期待したのですが、完全な空振りになりました。三振レベルでした。子どもたちには一時間の授業の構造を授業冒頭で説明したうえでのスタートでしたから、いろんなことを感じました。授業の構造そのものを子どもたちが意識しながら学ぶ習慣があるかどうか、ここは学びの深まりや広がりを生むためにとても大きなポイントになりそうです。最近強く感じていたことが、うまく流れない中で、自分としてははっきり見え、実験的な授業提案をした意味は大きいなと、納得することはできました。
④参加者からの意見でおもしろいと思ったのは、絵画を見るということに関しては自由でも、詩を読むということについては「正しさ」や「かくあるべし」に縛られるという話でした。ぼくは2001年に対話型ギャラリートークの授業を開発した時に、この方法は「正しさ」や「かくあるべし」に縛られて発言しにくい子どもたちが「自由」になる方法だと考えていました。その点の難しさがむしろ学習者の中で鮮明になるという指摘には、深く考え込まざるを得ませんでした。この手法もまた、文化になるまでやり続けることが必要なんだということと、もう少し手立てのレベルを細分化して考える必要がありそうだということと、二点を突きつけられたと感じました。
終了後の検討会は小グループでの話し合いでした。協同学習に習熟し、子どもたちの観察に非常に長けた校長先生が参加者にいらしていて、その方の話をぼくも小グループに入ってお聞きしているうちに、17時になってしまうという(苦笑)・・・グループ間の交流をせずに終わってしまうというオチまでついてしまいました。消化不良だった参加者の方もいらっしゃったものと思います。収穫もたくさんあったけれど、授業の展開、会の運用については、大きな反省の残る一日でした。
少しお疲れなのかも、と吉永さんになぐさめられました。そう言われるまであまり自覚していなかったのですが、この感じだと、そうなのかも知れません・・・。もっとも一つ一つの現場は待ってくれませんから、全く言い訳になりませんね。
対話型ギャラリートークは公開研修会では、ぼくにとって鬼門です。10数年前の気仙沼でのみじめな失敗をちょっと思い出す、そういう一日でもありました。
山形交響楽団第272回定期演奏会 2018.10.13
ドビュッシーの春
ウィリアム・ペリーのトランペット協奏曲
ショスタコーヴィチの交響曲第一番
というなかなか猛烈なプログラム。
山形テルサ。
とてつもなく大きいというわけでもないホール。音響は自然で後ろでもよくきこえます。
指揮は飯森範親。トランペットは主席の井上直樹。
ドビュッシーは、なんというか、楷書的というか…一生懸命演奏しているがスウィングしない…という感じ。こんなもんかなと思いました。
ペリーは全く別! 井上さんはやや気負った感じでしたが、オケもあおられて、豪演。アンサンブルの微妙な崩れをものともせず、素晴らしい推進力で、楽しくてカッコいい楽曲の魅力が存分に伝わる日本初演でした。
ショスタコーヴィチは、この曲をライブで聴けるだけで満足なのですが、演奏も力演。飯森さんの音楽は今回結構恰幅よく、大柄。堂々としたつくり。ただドビュッシーでも感じたように。やはり随所にペーソス、ユーモアを交えたショスタコーヴィチの世界を演じるには、やや生真面目で、音色もパレットにでている色が少ないという感じ。加えて、金管陣がペリーで高揚しすぎたか、結構なミスもありました。にしても、19歳の曲。その才気と、青春の息吹とでもいうか、ものすごい楽曲だと思いました。
地方オケの果敢なプログラムも、素晴らしいです。堪能しました。
事前の話では満席。でも会場には少しの空席もあり。支援者や企業のために確保している席だと思うけれど、何とかならないかな。前方の一等席とか、空けておくのもったいないよな。
国語科&道徳科の対話型・活動型授業づくり~授業づくりネットワーク理事長訪問⑮山形・寒河江が終わりました
17名もの参加。
真田さんはもちろん、佐竹さんや増川さん、宮坂さんなど長い付き合いのある方々、それに未知の若手が多数。ああ、開催してよかったなあと思いました。
今日は道徳と国語の授業をひたすらやりつづける。ほとんど理屈も話さず、読み聞かせすらせず。
この二年の学びは、本当にありがたかったなあと、最近講座をするたびに思います。たくさんの人、たくさんの現場との出会いが、今の自分を形作っています。
みなさんお世話になりました。
朝日町立大谷小学校へ 2018.10.12
寒河江で理事長訪問の会を開こうと思ったときに真っ先に思い浮かんだのは、20数年来の友人真田さんのことでした。
学校訪問のつもりが、研修講師として招いてくださる形になり、感謝感謝でした。
いつものように使い倒していただくバージョン。
1時間目 読み聞かせ(1年,2・3年)
2時間目(4年,5年,6年読み聞かせ)
3時間目 4年国語「ごんぎつね」
4時間目 5・6年道徳「ロレンゾ」
5時間目 2・3年道徳「どんどん橋」
15:25~17:00国語科&道徳科の対話型・活動型授業づくりについて
気がつけば肝心の真田さんの理科授業を見ていないという…苦笑。でもとにかく充実の1日でした。
児童数の減少の中、数年前までは想像できなかった「複式」も現れて、新たな課題に直面している学校。でも先生方の指導は充実しており、初めての演劇的手法を生かした授業も大いに楽しんでなごやかに取り組む子どもたちでした。
学級通信の腕を上げる会in山形終了しました 2018.10.11
生徒指導の入ってしまった参加者から直前のキャンセルがあり、マンツーマンでの会になりました。さすがにはじめてで、状況も説明したのですが、来ていただけることに。学級通信のこと、このくらい濃密に直接にお話し合いするのはじめて、おもしろい時間でした。
宮城教育大の院生だそうで、採用試験今日受かったそうです!
こういう小さな出会いを大切にするために自分の仕事はあるんだよなぁと再認識しました。
地方の都市でのこうした会。がんばってやり続けてみようと思います。
簡潔に話せないこと、力強い言葉で語れないこと、の方に
三日間、マイプロの北海道合宿に参加して、「ファシリテーター」という役割をいただいて仕事してきました。
ぼくを最初に「ファシリテーター」と呼んだのは、ちょんせいこさんでしたが、今に至るまでぼくは自分をファシリテーターだと思ったことはありません。また、広義な意味での「ファシリテーション」としての機能を、自分の諸活動が有しているというのはわかるけれど、人の育ちに係る立場にいる人は、ファシリテーターとして立とう、そのベクトルを持ってスキルアップしようと考えてきた人以外は、ファシリテーターと名乗れないだろうと、思っています。その意味では、ぼくはやはりファシリテーターではありません。
あ、そういう話がしたいわけではなく・・・。
高校生2名ないし3名に対し、ファシリテーター&サブファシリテーターでプロジェクト支援、さらに数名の遊軍という構成でしたが、二日目になると、支援するもの支援されるものの関係性が変わっていく、そして、斜めの関係や横の関係もどんどん生まれていく・・・さらにそこに専門家が外からやってくるけれど、多くは口をはさめない・・・みたいなことが起こっていきます。
それで改めてトップダウンとボトムアップのこととか、当事者性のこととかを、ぼんやりと考えるわけです。
ぼくは今、いろんな「現場」に入りずぶずぶとその日常に身を沈めながらいろんなことを考えています。そこはもう本当にそれぞれバラバラで、しかも、例外なく「問題」だらけなのです。ぼく自身は、そうした「問題」を十把一絡げに解決してしまいたいと全く思いません(というか、そういうことはできないと確信をもって感じています)。
それで、そうした「現場」を見ながら、FBやいろんな「先端的」メールマガジンや、そうしたものから流れてくる、「新しい教育」といったもの関連の情報へ目を向けると、違和感が本当にぬぐえませんというか、大きくなる一方です。
〇〇中等学校とか、なんとかグローバルスクールとか、あるいは公立・私立学校で先端的な改革が進んでいるという学校とか、いろいろな名前が出てきて、その「トップリーダー」あるいは施策を進めるエリートの顔は見えるけれど…彼らが語る言葉・像の中に、そこにいるはずの大半の先生・プレイヤーの姿、そしておびただしい授業の姿が、なぜこれほどまでに見えないのだろう。多分彼らの多くが、ぼくが見ているようなものに、本当のところ関心がないからなのだろうと感じています。
そうした「トップリーダー」が、目指そうとしている学校の姿としてアジテーションする言葉から立ち上ってくるものは、「多様性」がキーワードだと言いながら(ごく一部の例外はあるけれど)、みんな一様な立ち姿・のっぺりとした表情をしていると感じています。「トップリーダー」のいわば<大文字の発信>の一様さの特徴は、例えばインタビュー記事を読むと、彼らの名前を取り換えて写真を取り換えても、みんな問題なく同じように読めてしまう、とでもいえばいいでしょうか…。
それは昨日まで三日間見てきた子どもたちの姿や、そこに真剣に関わろうとするファシリテーター、サブファシリテーターのそれとは、ずいぶん大きな違いがあるように、ぼくには感じられます。
現場主義の陥穽はよく知っているつもりですが、この国の大半を占めているクソドロドロしたぐちゃぐちゃの現場の話を、もっと真ん中に置いて話したい、そう強く思います。
ぼくはおおむね、新しい教育という<大文字>を掲げて突き進む流れの側は、アセスメントが足りない、あるいはアセスメントの仕方が間違っている、あるいはアセスメントの結果得られたものの分析の視点がずれている、と疑い、心配もしています。おそらくこのことは、クソドロドロの現場にいる人たちとの意識の差をもっともっと広げていくでしょう。
だが、本当に大切なことは、プレイヤーのマインドを変えるのではなく、プレイヤーと一緒にマインドが変わっていくことです。
さて、ぼくにできることはなんだろうか、と考えています。いずれにしても、ぼくの「仕事(働き)」は、「コンサルティング」ではありません。あくまでもプレイヤーと一緒に考えながら走る「伴走者」です。ボクサーと練習を共にしたり、マラソンを一緒に走ったりする人のことを、コンサルティングしているんですね、という人はいないでしょうに…(笑)。
現場の話は、簡潔に話せないことばかりです。力強い言葉でも話せません。しかしぼくは、簡潔に話せないこと、力強く話せないことの方に、本質があると考えています。
マイプロ北海道合宿三日目 2018.10.8
高校生の感動的なトライに心が動きます。
プログラムの緩やかだけれどおもしろさ満点の構成と仕掛け、たくさんのファシリテーターの動き、実に学び多い三日間でした。相方にもとても恵まれました!
エピソードを語るということの難しさが、日々をどう生きているかということとくっついているという気づきもありました。振り返り、難しい。
帰り、車に乗ってはじめて、とても疲れていることに気づきました。
- アーティスト: クーベリック(ラファエル),モーツァルト,バイエルン放送交響楽団
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モーツァルトを聴きながら。