休みながら動いたり、動きながら休んだりする。心臓みたいに歩きたいんだ。
羽曳野市立駒ヶ谷小学校、名古屋女子大学中高等学校、大阪市立豊里南小学校
駒ヶ谷小学校・・・5月22日。
朝から入りました。梅谷先生の学級がメイン。
国語、異年齢の子どもたちによる話し合い活動など、盛りだくさん。
5時間めの読み聞かせは『トリゴラス』『むねがちくちく』『どろんこハリー』(紹介:うみべのハリー)。教室の子どもたちはホワイトボードミーティングにも徐々に習熟し、梅谷先生の手腕が光りました。
名古屋女子中学高等学校・・・5月23日。
2時間目から。サルバションさんとのご縁。
英語の研究授業(高二)、国語の研究授業(高二)、ぼくの授業は中学校二年生に二時間。道徳「命がうまれるその時に」
2A道徳
道徳と国語はどう違うの?
自転車っていつ乗れましたか?
詩 いのちの音
生きていると感じる時を読む
めいだなつきちゃんの文章二本を読む
うららの自転車映像(昨年のチャレンジ、今年乗れた瞬間)
生きていることの尊さについて今日の一時間の授業で考えたことを書く。
2B道徳
道徳と国語はどう違う?
読み聞かせ「およぐ人」
いのちの音音読
大石芳野さんの写真をみる
写真の女の子へペアでインタビューする
モデルを示します・・・担任と
ペアで交代で
めいだなつきちゃんの二本の作文を読む
天国のお母さんになつきちゃんに掛ける言葉をインタビューする
生きていると感じる時を読む。
生きていることの尊さについてどんなことを考えたか書く。
大阪市立豊里南小学校・・・5月24日
朝から入る。
6年生の教室で道徳「青の洞門」
音読
僧と息子になって、読んでみる
許すか許さないか「人間ものさし」
ディスカッション
支援学級の読み聞かせ参観
吉永さんの授業は二本
対話による鑑賞・・・図工
国語・・・ガヤガヤ村
放課後研修
付箋を三観点で、大判の指導案にはる
見る
再現授業(模擬授業)
ディスカッション
授業者がディスカッションから拾い出す三つの問いについて対談
自分の授業改善、一つ考えよう
オンラインでやりとりをすると
4月からのオンライン支援は順調なのですが、毎回1時間強話をすると、気持ちが高ぶって眠れなくなってしまいます。
それぞれの人たちの「熱」に触れると、それがこちらにも移ってきてしまう、という感じでしょうか。
今日もこの時間まで、結局眠れず。かと言って、原稿を見直しする気力もなく。
夜を漂う。
夭折したエゴロフの皇帝。繊細さな粒立ちの音、華麗で前時代的とさえいえるロマンティックな表現。幸せに満ちた皇帝。じいっと聴く。
- アーティスト: サヴァリッシュ(ヴォルフガング),ベートーヴェン,エゴロフ(ユーリ)
- 出版社/メーカー: EMI Records Japan
- 発売日: 2013/06/26
- メディア: CD
- この商品を含むブログを見る
江別市立大麻東小学校へ 2019.5.17
研究主任の内山さんとのご縁をいただいて、大麻東小学校へ。
今日は終日のフル稼働。
1時間目 4年生「花を見つける手がかり」
2時間目 3年生「めだか」
3時間目 あさがお学級「演劇活動による読み聞かせ」
4時間目 2年生「すみれとあり」
5時間目 5年生「言葉と事実」
そのあとは1時間半の校内研修。「つないで、つないで、一つの話」「紙風船」「イースター島にはなぜ森林がないのか」
あさがお学級以外は、全て説明文!
1時間目は、説明文の問いの段落に注目して、全文を一気に読み解く。
2時間目は、一読総合法的に読み進め、演劇的な動きを大きく交えて読み解く。
3時間目は、「すごいサーカス」「もぐらバス」「もりのなか」「さるとかに」
4時間目は、非連続テキストに焦点を当てて全体を読み解く。
5時間目は、グループ音読と演劇的手法を活用して読み解く。
説明文ばかりの1日は、チャレンジングで、学びの大きい深い1日でした。
北広島市立大曲小学校へ 2019.5.16
大曲小学校を再訪。
山本和彦さんのお誘いで。
5年生2クラスに漢文の授業。
書き下し文と訳文の交互音読。昨年甲斐先生の教室で甲斐さんもやっていらっしゃるということで話題になったものです。ぼくも長くやっている。久しぶりに春暁で楽しく交互よみ。さらに白文に返り点を打ち、返り点の暗号解読の一時間。
放課後は若手を中心とするメンバーの1時間のカンファレンス型のリフレクション。こうした場づくりが学校の中で進んで行くようにという願い。そして、方法が共有されていくようにという願い。
いい天気でした。
自分を理解していくしんどい道
昨日、今日と、以前からの予定通り、ひたすら父と向き合っている。一部オンライン支援の日程を変更させていただいたり、迷惑もかけています。
今朝は、20本近い電話をかけ続け、一体いくつの銀行口座で何件の引き落としや入金になっているのかわからない状況を一つずつ整理していきました。最後は口座を一本にまとめたいわけです。もう父は銀行に自力で出歩いたりもほぼできないでしょうから、なんとか環境を整備しなくてはいけません。
まとめようと考えている銀行の印鑑・・・。父は「これだ」と主張するわけですが、最初からぼくは疑っており、近くにあるその銀行の支店で、まどろっこしいやりとりを繰り返してやっと確認してもらうと、やはり違っていたりします。もっとも、全て想定内ではあります。
父は銀行までは到底連れていけませんから、結局銀行口座を開設している支店でやりとりするのが一番確実だなと思い、そこへ先に電話をかけて事情を話し、直接行ったりしました。その銀行支店は、とても小ぎれいになっていたけれど、かつて父が事件を起こした時に家族が身を寄せた長屋のあった辺りにあります。お世話になったピアノ教室の先生の家が経営していました、そのピアノ教室は今もあるんだな・・・(当時は、ぼくの最初の妻も、そこに同居することになり、なんとも申し訳ないことをしました。今思えばぼくも精一杯だったのです、本当はぼく自身も逃げ出したかったのでしょう、当時は自分の感情のありかにも気が付いていなかったと思います・・・)。死に場を求めて突然玄関から飛び出していった愛猫の背中を最後に見失ったパチンコ屋の駐車場などを見ながら、いろんな感情が吹き出してきそうな、そんな自分と向き合ったりします。
父は、印鑑一つ見つけられない状況、問われたことにほとんどまともに答えられない惨状に、自身もショックを受けるのですが、仕方がない。老いと死に向けて、まだしばらくの緩やかな時間を与えられていることにぼくらは感謝しながら、父が自分を理解していくしんどい道を伴走するしかないのです。
思えば、父は豊かな素養を持った文学者であり、しかし、自身ではまともに生活もできない自力走行の難しい典型的な文学青年教師でした。ぼくはその父の血を強く引き継ぎ、小さな頃から生活力が低いと周囲に心配されてきた子どもでした。
自分でも気づいていなかったけれど、今、父と過ごす時間が長くなって、そうだったのかと思うことがあります。胃ガン、事件、新たな活動・・・と進んでいった父の姿を見ながら、ぼくは自分で歩けること、ぼく一人で暮らせることを、強烈に意識しながら、30代以降の道のりを歩いてきたんだなということです。父の特性を強く受け継ぎながら、父のようには暮らさない、自分のことは自分で決める、自分のことを理解する力を身のうちに備える、孤独に生きられる、そういうことを希求してきたんだなあ、と。
ここから父の最期まで、ぼくなりに丁寧に伴走しながら、ぼく自身は、自分一人で、一人きりで最期まで歩ける人になりたい、誰にも寄り掛からない、そういう自分でありたいと改めて思ってもいるわけです。
さあ、自分のことも、やらなければなりません。原稿の見直しも、執筆も、最後は全部、ぼくがぼくだけでやらなければならない仕事です。
六本木クロッシング2019展:つないでみる 2019.5.13
3年に一回、日本の現代アートの今を見る、展覧会。
今日しかみる時間が取れない・・・間に合ってよかったです。
今回は森美術館のキュレーター3人(だけ)の目利きによる初めての選定。
今回は、前回よりもずうっと面白かった。にも関わらず、まさに「つないでみる」行為によって並べていくことで、ぼくには個々のバラバラさが際立っているという印象も受けました。今、アートシーンを指さすのは難しいのかも、毒山凡太朗の「あっち」のように。
こうした中で、例えば、竹川宣彰の「猫オリンピック:開会式」とかが強く胸を打ったりするのはそれが愛猫を亡くしたという極私的な経験と世界とを直接につなげようとする行為によって生み出された作品で、そのある種の「遠さ」に、自分の極私的な体験が滑り込める・想像力が入り込める、余地があるからなのかな、と思ったり。
一つずつの作品をあげる気力がないけれど、とにかく一つずつは本当に面白くて、なのに、全てを見た時に、つながりの希薄さと、それ故の(?)なんだかよくわからない軽さ・浮遊感みたいなものが際立って感じられて、考え込んでしまう、そういう時間でした。
図録買ってきました。
すぐ隣はピクサー展。全く興味も関心もわかず、こちらだけ見てきました。ピクサーには人がいっぱい。さらにムーミン展も。ここは猥雑な場所。
月曜日の昼、今日は割と少なくて、見やすかった。外国の人たちが結構入っていました。彼らは、ここにどんな日本を見ているのだろう。
イリーナ・メジューエワコンサート いずみホール 2019.5.12
どうしても聴きたかったイリーナ・メジューエワを、福岡からの帰り道、大阪で当日券を購入して聴きました。
昨年、久しぶりにヴィルサラーゼを聴きましたが、メジューエワは、多彩な音色とロシア直系のダイナミズムを持ったピアニストでした、ヴィルサラーゼを思い起こさせるような・・・。でも、少し違います。
メジューエワは、徹底した学究派なんだなと思います。子どもの領分はあまり面白くなかった、でも、ワルトシュタインはもう、二度と聴けないかもというほど、見事な説得力でした。
音楽的な説得力って、構造が見えるということとくっついています。で、メジューエワはアンコールの小品に到るまで全て楽譜を持ち込み、しかも、ちゃんと見ながら弾く。つまり、「今、ここ」の楽譜を再現するということにものすごい集中力を発揮するピアニストなんだと思いました。
そして、「今、ここ」を丁寧に表現することで、構造が見えてくる。優れた楽譜もテキストも、無味乾燥に全体を俯瞰して、それに線を引いていくような作業とは無縁な形で、感動と喜びを体を通して表現していくことで、ちゃんと構造も見えるようになるんだと、頭をぶん殴られるような実感がありました。
逆に言えば、構造を読むなどと言い募って、無味乾燥な構造分けを繰り返す国語教室にせよ音楽教室にせよ、それが、喜びや悲しみや驚き、表現の本質に届いたりしないんだよな、ということ。その前のそもそもの感動と、今、ここを読み取る想像力がなければならんのだな、ということ。そういうことを思いました。
メジューエワ、日本を選んでくれて、ありがとう。きっとここからさらに何十年かの時間をかけて、孤高の世界へとたどり着いていく可能性のあるごくごく一握りの才能なんだな。
九州メンバー充実していました・・・授業づくりネットワーク福岡集会終了しました
福岡集会。
内藤さんの尽力で会場を用意していただきました。内藤さんには朝の短い時間でしたが会うことも出来て、うれしかったです。来年はきっと思い切りセンターで活躍していただけるでしょう。
今回は蔵満さんの参加もかなわず、例年通りなら、ぼくと聖吾さんと神吉さんのおっちゃん三人組の開催なのですが、本田明菜さんが新理事に加わってくださって、会の雰囲気は実に華やかで和やかに一変しました。男性中心の教育セミナー社会、やっぱり、当たり前で自然な形にしていく努力大切だなと改めて思いました。等身大の気持ちの良い提案でした。
学び手中心の授業についてと、リフレクションについてと、二つのテーマを重ねて考えていく場づくりを考えたわけですが、九州の3名の先生の提案は、とても有機的に結びついて、バランスもよく、20名の参加者に楽しく深く考えていただく場が創れたかなと、思いました。
ぼくにとっても、理事が協同で学びの場を創っていく手応えが感じられて、気持ちの明るくなる一日でした。
次は6月。大阪集会。今度はオルタナティブがテーマですね。
朽ちることは許されていない
国立のさくら通り全体で、危険なのでどうしても切らなければならない樹が、毎年樹木医によって見極められていきます。今年は8本。うちのすぐ近くに1本。
ほとんどの樹木は、素人のぼくには「危険度」はわかりません。幹の中は空洞のようになっているのでしょうね、いろんなところが蝕まれ、要するに年老いているのでしょう。でも、花は見事なのです、なんの遜色もないのですよ。
彼らは、自然に朽ちることを許されていない。緩やかに老いて寿命を迎えることを許されていないということ。でも、最近は人間もそうだよな。