思考停止をどうする

夏休み前半の研修会の流れがひと段落し、あちこちぶらぶらしている。その中で、泡のように湧き上がってくる考えや感情や書き残しておこうと思います。言葉のつぶて、断片という感じです。

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なぜ、シングルイシュー的に解決できると(解決できるかのように)発言するのだろうか。複雑な諸相と向き合うのが大変だからか・・・。

 

新しい実践を阻んでいるものは、同僚とか学校の仕組みとかのように語られることが多いわけです。でも、実は阻んでいるものは、学び手(子どもたち)の学習歴にあるのではないでしょうか。教師が「思い込みや願い過多」(失礼!)で、教室に投げ込むものについて、子どもたちが納得していない、価値がわからない、そういうことが起こっているんだなと思います。子どもとの十分な話し合いによって、感情も必要も共有するプロセスを辿っていないんだろうなあと思うのです。

 

こんなに暑いのに、エアコンが設置されたことを理由に、夏休みを削り取っていく国。そういう異常さに管理職が声を上げない国。残念です。

 

表現の不自由展。図らずも、この国の表現の不自由を、ドラスティックに見せつける場になってしまいました。公と私とが連帯・連携することで運動や考え方を進めていきたいという方向があります、よくあります。でもなあ、そもそも表現の不自由展は、レジスタンスとして提案されるのでよかったのかもなあと、まだぼんやりですけど、考えています。