学校コミュニティが壊れてしまっていたことがよくわかった
1 同僚性の喪失・・・決められたことをみんなで必死に励まし合ってやることが同僚性じゃない。それぞれの意見を持ち寄りのびやかに語り合い、議論しあって、より良い職場にして行こうっていうことの真ん中にあったのが同僚性だったはず。
そんなものはもうどこにも無くなってしまっていたんだな。
2 萎縮・自己規制・・・分散登校の場にユーモアや笑顔はなしの方がいいのか?
医療関係者に申し訳ないとか? 結局、自粛の生真面目さだけを学校にそのまま持ち込んで息苦しくしたのは、教師一人ひとりなのではないか。萎縮と自己規制の時間も、ここで最終形まで行き着いた感じがする。
3 保護者との関係の分断
前のめりで同僚と繋がる、前のめりで子どもに教える、そういうオンラインの話はたくさん聴いた。
でも、保護者とzoomで繋がるみたいな話をした人はほとんどいなかった。
70年代の優れた実践者が一様に取った保護者との濃密な関わりを思い出してみるがいい。向山洋一さんだって、学級通信で濃密なつながりを作っていたことが見える。
通りいっぺんの関係の中で、ステイホーム期間に、保護者との協同性はほとんど機能しなかった。保護者からのクレームが来ないようにただただ祈る生活。こちらから話しかけていく先生はどのくらいいたのだろう。
結局、学校コミュニティが一番大切にしてきたものは、平成年間の時間をかけて、完全に壊れてしまっていたということだ。だが、では、これは学校なのだろうか。学校コミュニティは、誰かが作るわけではない、先生一人ひとりが当たり前に当事者だったはずなのだが。
それでも、それでも、学校は雑木林。