今日は、若い友人と午前中に本を挟んで対話。
気づきをメモとして残しておく。
<アートとスポーツと>
社会の役に立たないものとして見事に切り捨てられたアートとスポーツ。
スポーツベース(マインド)で創る学校、アートベース(マインド)で創る学校。
アートが、オンラインを介してでは届けられないものとは。
宗教が、オンラインを介してでは届けられないものとは。
仮に、それでも大半のことが届けられるのだとして・・・では、それでも届けられないわずかな部分を丁寧に見つめ続ける必要はないのか。
<多様な視点で>
いろんな「視点を借りてくる」ということへの違和感。
スポーツマン的全能感は、自分の足りないものを補うという発想とくっついているのか。
アート(マン)的欠落感は、自分が何もかも足りなすぎるという感覚に立つ。それは「借りてきて補える」ような量ではない。自分は圧倒的に足りないということが自分の存在価値でさえある。圧倒的に足りない一人ひとりが持ち寄るのである。だから、「視点を借りてくる」のではないなあと思う。私も一つのつたない視点として私自身をも持ち寄るしかないものなんだ。
<問題を解決することの>
ゴールを想定して、問題を解決する立ち方は強いし、かっこいい。
しかし、そのアグレッシブさの中で失われる純粋で原初的な感情はないのだろうか。
それは問題解決と共に蒸発してもいいものなのか。