オリンピック終わりにメモを書き残しておく

オリンピックが終わったので、少しまとまったものを、生煮えでも、それでも書き残しておきたいと思います

「復興」「コロナに勝利」「アスリートファースト」「次世代へのレガシー」など、次々と当事者や科学者、実務者には何の確認もした形跡のないスローガンを垂れ流し、事実上一つも実現することなく、二回目の、そしておそらく最後の東京オリンピックは終わりました。
4年生のぼくの娘でさえ、「オリンピック中継見るのは楽しいけど、やっていいかどうか考えちゃう」と言わしめ、伝家の宝刀「子どものため」にも概ね裏切られている感じなわけです。

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かなりの程度のSNSウォッチャーを自認するぼくの見ている範囲でいえば、今回のオリンピックに関わるやりとりで、スポーツがどれほどメディア利権と結びついているものか本当は初めて知った教員が多いのだと思いました。

メディアが大きな影響力を及ぼし個々のスポーツのルール改正などにまで手を突っ込んできた歴史について、多くの教員が無知であったとすれば底冷えするほど悲しいことです。

メディアスポーツの問題は前世紀の末には既に問題になっていたにも関わらず、そして心ある教員によるいくつかの実践が世に問われていたにもかかわらず・・・。ここにも積み上げられた歴史や実績・研究の成果ががほとんど継承されてこなかった「事実」が見えてきます。
例えば、体育同志会などは2000年に『教室でする体育』(創文出版,2000,出原泰明他)の二冊(小学校編と中学校編)の本を発表しており、その中ですでにメディアスポーツを取り上げた授業実践が紹介されています。この時期には『メディアスポーツの視点』(学文社,2001,神原直幸)などの書籍も既に発表されていました。つまり、こうした教室での取り組みはちゃんと継承されてこなかった。丁寧に扱われることもなかった・・・というか、多くの先生にはそんなことはどうでもよくて、多分、学習指導要領の学習内容を教えることに「夢中」だったのでしょう・・・。
ぼくは、ぼくなりに学級活動で、まだ自由度が高かった道徳で、そして国語の雑談の中で、学級通信で、こうした問題を子どもたちと共有してきました。

この悲惨なオリンピックへの邁進の中で、批判的批評的思考を育てる機会として、タブレット持ち帰り活用は、何か機能したのだろうか。

あ、そうそう・・・ぼくは元々教師であり、今もマインドも立ち位置も教師と自覚しています。で、この書き始めた文章も「学校」ということからできるだけそれないように書いていこうと思っています。

2000年前後にぼくがメディア・リテラシー実践に傾注したのもまさにメディアの暴力に立ち向かう教育が必要だと家族の事件をきっかけにして感じたからでした。

批判だけでなく発信力をというその後のメディア・リテラシー教育の流れにどうしても乗り切れなかったのもそもそものぼくの切実さがそんな方向には向いていなかったということでもあります。批判的思考と発信が一体的に機動しなければならないという理屈は理解していても、です。一貫して初等中等教育においては批判的思考を育てれば十分だろうと思ってきました(今も半ばそう思っているし、今回のオリンピックに関わる様々な報道を経て、その意はさらに強くなっています)。

ディジタルシティズンシップを、というのはよくわかるのですが、結局、デバイス活用を推す教職員や研究者は、GIGA政策が国策であるが故に、この意味不明なオリンピックに竿刺す動きは、ぼくの知る限りほとんど起こすことはなかった。GIGAを推進する人々は表立った政権批判も資本批判もできず概ねなんのカウンター勢力にもならないかたちでこの状況を追認したと見えます。

現状追認に終始する教師がばんばんタブレットを「使わせた」ところで、批判的思考も論理的思考も育て切れないだろうなと、かなり悲観的な気持ちになります。持ち帰りのタブレットは、批判的批評的思考を育てる最高の機会に、どの程度機能しただろうか・・・。

いずれにせよ、教育の世界から、「子ども連れて引率するのかよ」というようなうめき以外、ほとんどなんの批判的な発言も動きも見えなかったことは、予想されたこととはいえ、衝撃でした…このタイミングでぼくのようになんとか自分の言葉で語ってみようと思っている人もいるのならいいのですが。

最後になりますが、ぼくは、アスリートが資本のパトロンによって支援を受けながら競技生活を続けるという構造は「搾取の構造」だと思っています。アスリートには申し訳ないけれど、これにきちんとNOを突きつける、声を上げていくのは、アスリート自身の仕事だと思っています。