ファシリテーショングラフィックとはどのように「在る」ものか・・・授業づくりネットワーク京都ー糸井登さん還暦記念セミナー2/23

糸井登さんを顕彰する研究会が終わった。幸せな会だった。

糸井さんには、直接お礼の気持ちを伝えることができた。いろんな方が当日の模様を報告されているので、ぼくはみなさんとは違うことをワントピック書こうと思う。

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この日ぼくがずうっと注目していたのは、藤原由香里さんのグラフィックレコーディングだった。事前には何をするのか全く知らされていず、会場に着くとちょうど会場サイドの、全ての参加者が見ることのできる壁面に、彼女は長く用紙をつなぎ合わせたものを反物のように一枚壁面に貼り付けていた。真ん中には、麻糸を一本張って、上下を分けた。反物の左側に糸井さんの生年月日を描き、右側に「今」を描く。年表である。

 

ぼくは藤原さんの学校に何度も足を運んでおり、彼女が介在する授業もたくさん見てきた。というか彼女自身が授業をするそのものを見た記憶は極めて少数なのだが、校内で行われるほぼ全ての授業が、いわば藤原さんが創りだす「場」の中で行われていると「も」認識していた。

 

今回、藤原さんが全体の前に立ったのはただ一度、最初の講座のみであった。彼女自身が糸井さんとの思い出を語るという選択肢もあったろうに、それは一切せず、彼女は参加者に糸井さんとの出会いの月日を「人間ものさし」してもらい、個々の思い出を語ってもらい、そして、大判の付箋に出会いの時点の記憶(エピソード)を書いてもらって、麻紐で分けられた年表の下段に自発的に貼ってもらうということ「だけ」をした。

 

その後彼女は糸井さんの講演と、さらに阿部隆幸さん、池田修さん、私を交えた座談会を記録し続ける「だけ」であった。

 

これは、もちろんこの日の研究会の記録、グラフィックレコーディングなのだが、最初の30分ほどの登場の機会から、会の最後に至るまで、この年表の存在は、場をファシリテーションし続ける。彼女が書いたものは、まごうことなき「ファシリテーショングラフィック」であった。衝撃的だった。そもそも記録性(レコーディング性)が圧倒的な力を発揮することで場がどれほどファシリテーションされるかということは言を俟たない。つまり、多くのグラフィックレコーディングが、自分が描くことに夢中であり、場をファシリテーションすることにどれほど無自覚であるか、それ故にただのお絵描きレコーディングなのだと実感した。描き手に場に向けてどんなパッションの表出があり、知り続けたい意志があるのか、ということなんだ、と思った。衝撃だ。

 

教育の世界においてファシリテーショングラフィックがお飾りのただの記録になり、終了後の写真会がゴールになるのをたくさん見てきた。というか、ほとんどそればかりなのに、グラフィッカーがファシリテーショングラフィックを名乗ること。そして、そうした描く技だけがある描き手を、名うての講師や、自己顕示欲もりもりの若手講師が、修行の機会をくれてやるとばかりにただ働きさせている場面を、山ほど見てきた。少なくとも早くにそれに気づいたぼくは、グラフィッカーには必要な経費と謝金とをしっかりと準備することは心掛けてきた。また、何人かの若い描き手と、ファシリテーションのツールとしてグラフィックが機能する場づくりにも腐心してきた。

 

もちろん今回の会は、藤原さん自身が吉川裕子さん、川本さんと共に三人で場を創るいわば企画者だったわけだから、金銭的な問題は、彼らの内部の問題である。

だからポイントはそこではなくて、ファシリテーションとは、人前に立ち続けるという形だけで起こるわけではないこと、話し続け促し続け語り掛け続けるというようなことが本質ではない。したがって、そうしたものを支える流暢な話術のようなものが本質なのではない。まさに場づくりにどう賭けるかというようなことに、そもそも腐心されているかということが根幹なのだ、と改めて感じさせられたことだ。仕掛けが圧倒的に機能する。しかも、それは、ほとんどの参加者の俎上に乗らずに、しかし、皆がファシリテーションされている。 

実に実に見事な仕掛けであった。

 

藤原さんの授業を見ながらいつも違和感を持っていたのは、彼女の板書であった。子どもたちの発言を黒板に拾い続けようとするかのような板書は、ぼくには過剰だった。それは時として彼女自身の不安を取り除くための行為とも見えた。

しかし、今回のFGを見ながら、それにも増して、彼女の板書は、神羅万象の全てを知り尽くし書き残したいという内なる欲求の現れなのだと思った。糸井さんの講座と4人の対話を書き尽くしていく姿は鬼神のようでもあり童女のようでさえある。そしてその熱が、場を確実にホールドし、参加者のファシリテーションを促していくことになっていくと、少なくともこの日はわかった。

ぼくとは全然違うアプローチだが、でも、ぼくの見たこともない地平・水平まで、藤原さんは進んでいくのだろうなと思う。遠くまで遠くまでいく人たちの背中を、見えなくなるまで見続ける。すぐに見えなくなってしまうかも知れないが、見えなくなった後もずうっと見続ける。それがぼくの立場・仕事であれたなら幸せだ、とそういうことなんだ。

”黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る”

 

追記:いや、最後に花束を渡したのは藤原さんだった。彼女が前に立ったのは、最初と最後。壮大な「循環」形式ということでもあった 笑