society5.0を痛打する

ぼくがsociety5.0ベースの新しい学校像・授業像の話をする時に、いつも批判のポイントとしてあげるのは、その粗雑な歴史観と人間観のことである。society1.0は狩猟。2.0は農耕。ぼくが教員生活をしてきた大半の地域の人々は農耕を暮らしの主軸に置いてきた。無論、あの内閣府の図式が「わかりやすさ」を重視していることはわかっている上で、そのわかりやすさがどれほどの人々の存在を「透明にしている」(つまりいないかのようにしている)かについて、推進者の大部分の人々に、想像力がないことは、あまりにも痛いと思っている。

農耕以上に深刻なのは、狩猟。ぼくは北海道に入植した和人(シャモ)の子孫である。ぼくの祖先たちが入植の過程の中でアイヌの人々の生活基盤である「狩猟」を奪ってきたことを忘れてはいけないと思っている(その権利回復はまだなされていない)。このsociety5.0のモデル図式を、人数としては少数だからと言って彼らに向けて<これが新しい世界観・社会観です、どうぞよろしく>と手渡しできる無神経さはぼくにはない。そもそもぼくら自体が流れ者であり、前に暮らしていた本州以南の地域からいろんな事情で弾かれてやってきた(中には差別されたりいじめられたり、阻害されたりして来た人も多かったはずの)人々なのである。その入植者が、今度は先住民に対して、典型的な力の上下関係による重層的な差別構造を生み出して来た・・・。

だから、なおのこと、時折首をもたげてくる保守政治家の単一民族国家観が気になる。それを知るにつけ、彼らの歴史観と人間観を痛打しなくてはいけないと思っている。

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かつてぼくが勤務した学校にはアイヌ系の子女がいた。困窮の中で暮らすその子の母親からは当時インターネットについての相談が何度も何度も自宅への電話にあった。ネット回線を引くまでに金銭的にも時間的にも大きなコストを要するその家庭の状況こそが、透明にされかかっている人々の実情なのだ、と実感していた。

休校措置に迅速に対応して、ネットでの学習支援が動き出している。そのことの価値も仕方なさもわかっているが、そのことによって透明にされていく、人数としてはわずかかも知れない人々の存在の「大きさ」を、想像できていて欲しいと、祈るような気持ちだ。やりますやります、と言いながら、最終ラインのセーフティネットを目の粗い網みたいな物を投げてよこすだけで、終わらせようとしているのではないか、という疑いを、ぼくは持ち続けている。

「個別最適化」という言葉がどんどん見えなくしていく「個」の姿を、夕闇の中でどんどん見えなくなっていくものに目を凝らすようにして、ぼくは最後まで見続け拾い続ける人でいたいと思う。