見てきた風景が違うのだ、ということ「だけ」でも、心底わかり合わねばならないのだよ。

いつだったかの、東京新聞に、菅さんが官房長官の頃の、当時の沖縄の知事だった翁長さんとの会談でのエピソードが載っていた。

「私は戦後生まれで、歴史を持ち出されても困る」と言ったという菅さんに、翁長さんが「お互い別々に戦後の時を生きてきたんですね。どうにも擦れ違いですね」と応じたという話だった。

f:id:suponjinokokoro:20201125114801j:plain

-----------

1989年バブル経済の真ん中でぼくは教師になった。少なからぬ友人たちが、東京での就職を目指し、びっくりするような証券会社や銀行、不動産会社に就職していくのを尻目に、ぼくは当時、旭川から網走間をまだ走っていた夜行列車に乗ってオホーツクへ向かい、そこで辞令をいただいた。それまで聞いたこともないオホーツクの漁村で教師をスタートした。漁村とは言え、羽振りの良い街だった。確か当時、北海道のJF(わかりますか?)の副理事長を輩出していた港町だ。荒れた中学校で最初のひと月を過ごし、GWには旭川へ逃げ帰った。それで負けてやめてしまうのが悔しくて、GW最終日の最終便で、旭川から直通で名寄をへて遠軽に至る名寄本線に乗って、その漁村へと帰った。

 

その列車には、4月から教えることになったばかりの中3生が乗り合わせていた。行動的な男で、鉄オタだった。ぼくの横に座って、車両にまつわる様々なことを話してくれた。「この車両はキハなんとかと言って・・・」というような話だったと思う。そう、それは名寄本線の最終便だった。この列車をもって、全国の国鉄路線で初めて「本線」と名のつく長大路線が廃線になるのだった。

 

漁村は帆立や毛蟹など嗜好品を中心とする漁獲を中心として生計を立てていた。網元はみんなお金持ちで、足元の線路が剥がされていくのを尻目に「モータリゼーションの時代よ」などとうそぶいていた。使用人は貧しかった。もうこの国はゆっくり傾き始めていたのだろうが、みんな全然わかっちゃいなかったのだ。

 

荒れた子どもたちが、夜中に遊び場を求めて、理想ばかり高く「甘い」教師であるぼくの家にやってくる。もう深夜だ、さすがに家には上げられない。そうすると、今度は平屋の教職員住宅の低い屋根によじ登り、屋根上を「イシカワ イシカワ あけろ あけろ」とアフリカのダンスみたいなリズムに節をつけてドタバタとひとしきり歩く。

室内で屋根の上のダンスの音を身を縮めながら聴いていると、家の電話が鳴る。高校時代の友人ヒロヒデが、東京からぼくの部屋に電話をかけてきた。電話の向こうから女たちの矯声、グラスの音が聴こえる、音楽が聴こえる・・・。酔っ払った声でヒロヒデが言う「おーい、シーン、お前なんでそんなとこにいつまでもいるんダァ。東京来いよぅ。こっちは楽しいぞ」。

-----------

同じバブル期を過ごしても、ひたひたと生活基盤の剥がされていく音を聴き続けていた人たちと、キャバクラかディスコかで女性をはべらせながら金を撒き散らすように遊んだ人たちとでは、見てきた風景は、全く違ったものであろう。ぼくは今、日本中を旅から旅へと歩きながら、いつもみんな見てきた風景が違うのだ、ということ「だけ」は、自分に言い聞かせながら対話を重ねていこうと、自分に言い聞かせている。互いの見てきた風景が違うのだということ「だけ」でも、心底分かり合えねばならないのだ。

-----------

それで、改めて、冒頭の菅さんと翁長さんのやり取りのこと。

 

報道の通りなら、互いの見てきた風景の違いと向き合いながら対話を続けようとしているのは、翁長さんの方だったろう。

あることに、最近気がついた。

対話の中で、見てきた風景の違いに目を凝らそうとするのは、結局弱い方の立場の人、悲しみを知る方の人、なのだなあ、と。