最近読んだ本から その35

音楽批評というニッチな切り口から見ていくと、本当にクリアに見えてくることがある。音楽批評は、明治維新以降の流れを考える時に当然のことながら学校教育の目指したものや提案してきた方向の問題と民衆史的な流れとの相克と正面から向き合わざるを得ない。1960年代以降の歌謡史における平岡正明らの役割(暗躍)についてなど、目から鱗の指摘も多かった。普段はライトな語り口の両者が、実に膨大な批評の歴史を背負った先端にいるということに、気が付かされて、己の不明を恥じた。伊澤修二の近代音楽教育についての考え方の考察は、ほぼ全面的に吉田孝さんの主張に依拠しており、この辺りの真摯な目配りにも脱帽。ナベプロが批判の対象であり続けた時代、またプロダクションが衰微した現在の状況などを考えると、今のジャニーズはさてどこまで栄耀栄華を誇り続けられるのかなというようなことにも、関係ないけど想いを馳せてしまった。

真骨頂であるゼロ年代以降の音楽状況と音楽批評そのもののメタ認知対談は、圧巻。こういう本を読んでしまうと、今の学校教育界隈の人文知と歴史に学ばない実践論文の拙劣さ(自分も含めて)に絶望しそうになる。

今や音楽評論は「プレイリスト」としてしか存在しない、という主張に寄せれば、各章末に取り上げられている圧巻の音楽批評書リストとその書評の集積と配列こそ、プレイリストとしての音楽評論なのだなと思う。

『ニッポンの音楽批評150年100冊』に全面的に論を依拠する形で要約引用されていますよと、吉田孝さんに興奮気味に伝えたら、御本をわざわざ送っていただいてしまった。感激。新幹線車内で読み始めている。

アイヌに関する言説は多様で、各論者の質を即時判断というわけにはいかない自分にとって、この本がどの程度「正確」なのかわからないが、紹介されている情報の多くは既知のことであった。ただし、知らないことも色々あった。講座の空き時間で読んだが、パラパラ読めば15分。でも少し丁寧に読むとさすがに1時間ではそもそも読めないよね 笑。ましてアイヌの文化と歴史を一時間でわかるわけがない。

鈴木優太さんからこちらも恵送いただいた。前作と違って少し理屈が厚めに書かれている。新年度の準備をする先生方にヒットするネタ(話材)がいっぱいだ。もっとも、ぼくが面白いと思ったのは、ICT活用が普通になった一冊だということだ。表紙にもどこにもICTの文字はない、つまり普段遣いになり始めたICTの本として、教育実践記録書の歴史的にいうと、おそらく先鞭をつける一冊になるんだろうなということだ。少し大袈裟に書いたが、本の中身は親しみやすい。

1976年刊行。当時はパートナーでもあった舟崎克彦さんとの共著が多かった靖子さんがテキスト執筆にもチャレンジした記念碑的な作品だ。文体は徹底した自分語りで、作品としては全然違うことを承知で、吉屋信子の初期少女小説などにも通じる、またラノベなどにも通じる不思議な風合いの文体である。要するにやや稚拙な印象も受け、後の靖子の晩熟を考えると、丁寧に長く描き続けていくことの大切さに思い至る。