すぽんじのこころでつぶやく 2022年4月下旬

1 ここ数日は外に出るたびに鼻水が出る。膝が痛む。

2 ルトスワフスキのチェロ協奏曲。ペレーニ。ジョルジ・レヘル&ハンガリー放送響。ペレーニはこの曲をベルリンフィルの定期でも弾いているはず。

3 突哨山。今年は今日だけかなと思いながら裏手から入る。気温6℃。曇天。時折氷雨。みんなうつむいて可憐な夕方。

4 九条保持を願う人が具体的な個人への影響や国体護持を優先することで起こるであろう悲惨な生活を具体的に想起させる言葉で語れない以上、大きな話に回収されていくのは必定だと思う。

5 今日は函岳は見事な雪化粧だった。大雪山系もニセイカウシュッペから十勝連峰まで見事な美しさだった。

6 子どもたちはぼくの名前をスルスル覚え名前で呼んでくれるのでぼくも覚えるしかなさそうだ 笑

7 久しぶりのセンター講座。一時間弱の講義は60点くらい(自分内合格点)。たくさんの人に話すのは難しいな。資料たくさん持ち帰っていただいたので読んでほしいな。

8 4月のばん走記録。

学校ばん走は7校(小学校6、中・高1)

研修センター1つ

講座3回

観察授業16時間

実施授業4時間

校内研修3回

Ion1オンライン対話74時間

よく頑張りました。

9 落語は小さい頃から聴いてきたが、教師としての語りに役立つと気がついたのは結構後だった。で、ぼくにとっては実はそれは「語り」そのものの学びというよりは語らない(語れない)瞬間のついての気づきだったと思う。現場で立ち尽くしてばかりだった自分の立ち尽くしをいかに自分の懐に入れ直しするかという「間」の学びだったとでも言えばよいか。教室はどのように強弁しようとも教員が場を作らねばならないところだからそこで起こる様々なハプニングも「一見」全てが懐で掌で起きている「ように」思わせる所作が必要だと知ったからだった。落語は全てを語り手が紡ぎ出す世界である。ただし聴衆との相互作用によってそれは高まっていく場なのだが、それは常に聴衆を懐に掌に入れ続ける所作であり、その要諦は「間」にこそあるのだなと、ぼくは思ったわけである。つまりぼくは落語の語りに学び、でも語りそのものには学んでいなかったのだと思う。

10 立ち尽くし姿が美しい人でありたいというのが自分の願いである。