すぽんじのこころでつぶやく 2021年5月上旬


1 さて、少し炎上も覚悟で。

  ぼくはぼくの家族に関わる署名のことでとても苦い経験があるので、署名についてはリアル・電子を問わず慎重だが、しないわけではない。その正負の影響なども飲み込みながらどうしても社会的インパクトが必要だと思えばする。

 宇都宮さんの五輪反対署名もした。派生して池江さんをはじめとするアスリート本人への直接的な五輪反対表明の働きかけがあって、議論がわきおこっているが、そういう様々な問題が起こることをある種覚悟の上で、それでも動き出さなくてはいけない時もある。要は一人の人として意見表明についての自分の背負う責任についての当たり前程度の覚悟すらないで意見表明はできないものだと思っている。そして、みんながそのように責任を持って意見表明すルべきだと思っている。

 「教師のバトン」にも初期から懐疑的なツイートをして一部の不興も買ったが、何がぼくをそういう懐疑的なつぶやきに走らせるかというと、結局予想通り「文部科学省への告げ口と言いつけ」の形に堕して行ったからだ。影響力のある人や力のある組織におねだりをして何かを変えてもらおうというさもしい考えをキッパリ捨てるところから、初めて、「的」なんて曖昧な言葉のつかない「主体」が生まれるのだと考える。

 

2 朝のNHKをダラダラ見ていると、暗い気持ちになっていく。<買い物でSDG's><エシカル消費>・・・ぼくが教員になって以降だって、代替フロン、EM菌、健康食品、自然派化粧品、ケナフ…消費ベースのライフスタイルを根本的に見直さずに何かを代置する話ばかりで、緩やかな坂道を下ってきて、今ここ。

 カカオのフェアトレードチョコだって、そもそも歴史的にはカカオしか作付けさせない搾取がスタートだろう。ぼくらがヒエやアワしか作付けできないループに押し込められた後、フェアにトレードしましょうって言われてるようなもんじゃないか…。

 

3 自分の教育実践は大きく形を変えていくもの。それを思い描かず一時の手応えと自信を背景に生煮えの本を世に出し、それが十字架になった実践者はたくさんいた。東井義雄や無着成恭でさえそうだった。若き実践者は可能性の塊だがそれは長い長い流転の旅路の入口に立っていることを示しているに過ぎない。ぼくは東日本大震災を契機に意を決して数冊の単著を編んだ。それまでは共編著しか引き受けないと決めていた自分にとって大変な決断だった。結果として40代半ばまで単著をまとめなくて良かったと思っている。今読むとそれでも明らかに生煮えの本。恥ずかしいなと思うページばかりだ。

 

4 選べるものがあふれるという状態は、選べるものが何もないという状態と、現象的にはほぼ同じだ。個別最適な学びの一番の難しさは、子どもの前に選択の大風呂敷を広げる「だけ」になることだと思っている。

 

5 後は判断を任せますとして、良さげなものを放り込むことは、とても罪深い結果を招くこともある。編集者やキュレーターの仕事の本質は迷いながらも選んだものを構成して差し出すことだ。そこを事実上放棄した仕事のなんと多いことだろう。

 

6 判断選択の背景にはちゃんと「知性」があることが、かつては自明の前提だった。ここが崩れてしまった社会はもろい。

 

7 一人一台デバイスは素晴らしかったが、それを支えるものとして普通にあったはずの知性主義の崩壊があまりにも深刻で、ただただ崩壊と分断を生むツールになってしまいそうだ。かなしい。もちろん施策を打つ側には、施策を打ち出すための現状分析と説明責任とがある。少なくともディベートを学ぶ中で、ぼくは、立案者の側の責任を、そのように学んだ。学術会議への無知で無学な介入や、コロナの学者への不見識でみすぼらしい対応の数々を見ていると、そもそも知性主義を崩壊させてきたツケを、自分たちで払っていると見える。もっとも政策立案・執行に関わる側が、針小棒大に成功事例を指さして十分な成果を上げていると強弁するのも、もうこの国ではお決まりの状況だ。

 

8 年齢受容の難しさの一つは、自分の発言が一つの権威として受け止められてしまうことだ。僭越ながら…マイノリティとして若くして発信されてきたあなたもあなたも…発言が既に一つの権威として反駁しにくく受け止められている可能性がある。マイノリティの代弁はステータスの上昇とともに難しくなる。

f:id:suponjinokokoro:20210520095650j:plain